2009年05月20日

「沖縄で思いがけず、私は何かに衝突してしまった」 I Won't Be Silent Anymore

(みねまいこが狂ったと思うなよ。今日は、カフカの『変身』みたいなはなし)

沖縄、琉球大での学会発表は、楽しかった。私の発表中、会場の中からひとりだけ「うん!うん!」と声を出して反応がある。アメリカの黒人教会ならば「Oh, Yes! I will.」とか「Amen!」のようなノリだろうか?なんとなく普通じゃない方だな、と思っていたら、あとから友人からきいたところによれば、私がやっていることの第一人者のめちゃめちゃ有名な某大学の教授だった。なんでも12月に別の学会があるから、そこで私が発表するようにということだった。

さて、沖縄は思っていた以上にすごかった。夕方、1日目の学会が終わりバスの中から、風景をながめていた。琉球大のある那覇市郊外には、女性の子宮を形どった墓がどっかりと地面に根を張り、その脇を高校生の男の子がアイスバーを片手に自転車で通り過ぎていった。墓のそばの畑では、おばあさんがエプロンみたいな薄手の服を、着ているのか、脱げかかっているのか、おそらく全身で風化しかかっていたのかと思う。おばあさんが、ただ立っていた。夕暮れ、ただ立っていた。

那覇の市街地を歩く。アメリカの文化と日本本土の文化と、台湾の文化とそして沖縄の古い伝統文化との4つがあって、それらを状況に応じて複雑に選択しているような気がした。いろんな人と話してみて不思議だったのは、自分の好きなものだけに集中して宗教的なまでにわが世界の構築を繰り返し、実はそこに自ら軟禁状態になっているようなバランス感覚の悪い人たちがいなかったことだ。それはたぶん、何かひとつのたとえば大きなグローバリズムのようなものがやってきたときに、十分逃げたり闘えるということでもあると思う。それがもし1つの文化だけでほそぼそとやっていたとしたら、簡単に大きな波に飲まれて負けてしまう。スターバックスが林立したり、大企業が戦略的に流す情報が大きな事件になったり、重箱の隅をつつくような趣味を展開したり、「それしかない」ということはそういうことだ。

島唄を初めて生で聴いたけど、なんとか歌えた。ステージで、島唄のトップクラスの歌い手と一緒に歌った。感激。実際に歌ってみた印象は日本古来の持っている「歌」のメソメソした感じがまるでなかったこと(もちろん音階とコードの違いは大きい)。百人一首からつづくメソメソ感。額田大王らはちょっとちがうけど、読めばわかる。実にみんなしょーもないことで、メソメソしてきた。髪を長くしてひきこもりみたいに奥の部屋に住んで太陽も浴びず、昼夜逆転の生活、体力は失われるばかりの生活をすれば当然そうなっちゃう。百人一首のメソメソ感は、J-POPへと続いている。その影響力の強さはある意味すごいのだが、今回うたった島唄は奇麗な色の鳥のことも、戦争も、セクシャルないらやしいことも、親が死んだことも、男と女の清純さも、すべてからっと乾いていた。明るかった。

さて、観光をして、いよいよ福岡に戻ることになった。夜の便だった。「もうすぐ福岡空港に着陸します」というアナウンスに飛行機からの夜景をふと見た。その時だった。福岡の街が、くねくねと生き物になった。ビルのひとつひとつが巨大なナマズのようなドロのような色をして、ミミズの全身がツルンと、のっぺらぼうになったような暗い生き物に見えた。そしてビルの灯が、赤い目だった。それらの気持ちの悪い生き物は口はなく、赤い目をふたつ光らせて、くねくねと上空にむかって当てもなくうごめいていた。それが一斉なのだ。見渡す福岡の街がすべて、その生き物で埋め尽くされていたのだった。

私が狂ったのか、と一瞬思った。でも、こういうことなのだ、と了解した。これは自分の中の確信なのだ。私は、ここまでこの街、もしくは自分の属している生活の背景、自分の今の状況がこれほど嫌いなんだと確信した。確信しても、それでも冷静ではいられなかった。本当に眼下では、異様な赤い目の生き物が体をくねらせて街一面、垂直にはえていたのだから。

いろいろな憎しみの感情が湧いた。あんたの心の弱さが嫌い、あんたの重たいプライドが嫌い、あんたの小心さが嫌い、あんたのしつこさが嫌い、24時間他人に認めてもらわないと生きた心地がしないmixiみたいな性質のあんたの行動が嫌い、あんたのすすり泣きが嫌い、あんたの社会性の無さが嫌い、ぐずぐずして人生を決められないあんたが嫌い、あんたの大人になりきれない甘えが嫌い、実は形式しかない/誰も信じてないくせに/意地でも残そうとする男尊女卑の祭りが嫌い、バカな男を肯定してあげる一歩下がってあげる女が憎い、出席番号は常に男子から/生徒会長も男子が望ましい/そんな中学校で、自分の才能を自分で押し出しちゃったり、諦めることを大人になることだと悟る女の子たちを目の前で見てて、手を貸さない大人の女たちが憎い、自分の壊れやすい何かが壊れないようにガラス細工のように「自分」てやつを頑強に守るあんたが嫌い、自分の頭が悪いせいで人生を難しくしてばかりのあんたがぜんぶ悪い。そう、こんなふうに。

地上に着いたら、その生き物はふつうのビルになり、気配さえもなかった。でも、私の中で悪寒として残っていた。家に着いて、眠る直前にもうれつな気持ちの悪さがあり、その後で全身が火のように熱かった。服を脱いで見ると、あちこちに真っ赤な珊瑚礁のような腫れ物ができていた。表面がガタガタと浮き出てくる。ほんのちょっとの肌の滑らかさもなかった。鏡で顔を見た。顔は大丈夫だった。しかし、ショッキングピンク色のクマが目の周りにできていて、なにやら幸せそうな薬物中毒者のようだった。いやいや、それどころではない。

首から下のその異様な熱さは、その後で猛烈なかゆみになった。掻きむしる度に、あの上空から見た不愉快な生き物を思い出し、怒りを覚えた。そのガタガタとした真っ赤なできものが首から下、やがて全身にひろがっていった。こんなことってあるのだろうか。いつか写真で見たグレートバリアリーフというのか、珊瑚礁の棚のような出来物が体に浮き上がって、つぎつぎに私の体を占領して行った。

ところで、沖縄ではずっと前は小学校で「遺骨拾い」の時間があって、生徒が近くのガマなどに拾いに行っていたという、そんな、今回の沖縄滞在で、芥川賞作家の又吉秀喜氏から聞いた話とからみあったのだと思う。夢中で体にできた大量の赤い腫れ物と格闘していると、白い骨と、みやげ品店で見かけた、白くなった珊瑚の死骸がたくさん目の前に浮かんだ。そして目を閉じると、なおさらふたつがカサカサと白く降り積もるのだった。

目を開けると私の皮膚には、白いカサカサとした骨になる前の「血と肉を持つ人間たち」が赤い珊瑚になって浮かんでくる気がした。そしてその珊瑚はやはり、今はやがて白くカサカサになる前のまだ生きている「赤い珊瑚」なのだが、そういったものが表面に染み付いて、一瞬で私を大量に占領した。そして絶望的に私の皮膚の上の腫れ物は決して死んではくれず、私の制御できない力をもって、いっそう生きようとしているようだった。

ヒステリーなのだろうか?アレルギーなのだろうか?病院に行っても、医者はわからないと言った。もらった薬を飲んだらしばしおさまるのだけど、気をゆるすと、また腫れ物がいっせいに出てくる。しかしスタジオでのリハーサル中は出ない。でも終わるといっせいに出てくる。これはいったい何なのだろう?わからない。いっせいに生き生きとした赤い珊瑚が皮膚の上で生命力を吹き返す、そして私はそれをコントロールできない。そこで、私は自分を放っておく。何もしない。顔から下にはまともな皮膚がない、私の体には珊瑚ばかり。

自分の中で次々と生まれてくるのは、怒り。
根治しないのはいつも、怒り。
生命力というべきか。

誰かが言っていた。「みねさんは巫女的な性質がある」だとか、西洋のキリスト教会では「霊的感性が他の人よりも圧倒的に優れている」だとか。人が言っていたのは、このことなのだろうか。家族や友人は、私の体の異様さを見て「元海軍司令部壕の手榴弾の跡に似ている」だとか「血しぶきみたい」だとか「人間から異形の存在に変化する」なんて勝手なことばかり言っている。そんなわけないだろ。

何もできない、皮膚が不愉快でたまらない。ひたすらうめいていた、でもいいことを思いついた。珊瑚は地球温暖化で1度海水の温度が上昇したら死滅する。だから、私も1度平均体温を上げよう。無謀な試みはいつの時代も同じ。私はアメリカの西部開拓者のように、西へ向かった。奇妙な思いつきではあるものの、自転車で西へ、佐賀県に行くことにしたのだ。

走りながら私は風景を見ていなかった。南部戦線で一家全滅しての無人になった民家や、ひめゆりの女の子たちが大事にしていたおしゃれな雑誌の切り抜きやかわいい柄のハンカチが見えた。沖縄では光の量が多すぎていつもすべてが白っぽかった。そんな強烈に焼き付いた像から逃れるために自転車で走った。

結局、佐賀にはたどり着けなかったが、福岡市の中心から西へ20数km進んだ時に、体中から珊瑚がどんどん消えていくのを感じた。得体の知れない私の中の怒りは消えて、後には妥協という名の平和な生活が待っているのかもしれなかった。死滅してしまえば、もったいない気もした。記念に一部分残しておけばよかった。山をいくつ超えましたっけ?ああ、ため息とともに、自転車の向きをかえ、来た道をまた20数kmかけて戻った。
posted by minemai at 11:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年05月13日

お知らせ。

体調不良により、休息をとります。
次回更新は、5月20日(水)を予定しています。
みね
posted by minemai at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年04月26日

臨時更新:JIYU-KENKYUお知らせ

世界激場関連の勉強会、JIYU-KENKYUが、5/3(日)12:00〜福岡市美術館のカフェで行われます。どなたでもお気軽に、ご参加ください。
http://sekaigekijou.cocolog-nifty.com/

毎週水曜日更新中の『週刊みねまいこ』は、4/29(水)、5/6(水)の2週間、休刊します。次回の更新は、5/13(水)です。お楽しみに。

posted by minemai at 11:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年04月22日

12年の物語

毎週水曜日更新の『週刊みねまいこ』が始まりましたが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか。今日は、私が最近経験した、自分にとってものすごく大きな、最大といってもよかったくらいのことが、変化したことについてのおはなしです。

のっけから私事なのですが、私が大学時代からひとりで育ててきた子どもが先日、中学生になりました。苦労は多かったよなあ。一番の苦労は、経済的苦労かなあ。これは涙なくしては語れない!クリーニング屋さんの真上に住んでて、1Fのクリーニング屋さんに、バスケットに赤ちゃんを入れて働きに行ってたもの。それをやりながら、卒論書いてたり、入学試験を受けたりしてたっけ。がんばり屋といえば聞こえはいいけど、ちょっと異常だと思うよ(笑)。

気がついたら、そんな異常な生活を12年間も続けていたのよ。びっくり。ガラスを割っただとか、喧嘩しただとか、脱走しただとかで小学校からよびだされたり、子どものお誕生日会だとか(NHKのディレクターがケーキを持って来てくれました)、PTAの役員だとか、地区の行事だとか、お稽古ごとの送り迎えだとか、私の20代は自分自身のために使ったといえる時間は、あまりなかったよね。その子どもが、今週夕ご飯を食べながらこう言ったわけ。「これからは自分のことは自分でできるし、僕は家事もできる。だから、お願いです。家のことは僕がすべてやります。おかあさんは外で仕事して、もっとお金を稼いでください。」しーん。

そりゃそうだ。今のままでは、ただの貧乏な母子家庭だもの。友人から「『世界激場』なんて少し社会的な音楽イベントをやってるけど、まいちゃんがいちばん格差社会の底辺じゃないの」と、わたしずっと陰で笑われてきたんだもん(笑)!しかも、私は大学院で借りた奨学金がまだ相当にあるからね。さあ、どうする!これが共働きで、夫がいたのならまだ違ったと思うけど、まあ私は、たんなる「◯ちがい」。美人だけど。

しかし今回の「子どもの独立宣言(アメリカ独立宣言みたい)」によって、本当に私がこれから仕事を本気でできる環境が整うのであれば...?私にこんな幸運がやってくるとは、思いもしなくって、「いっさい容赦しないわ、パワー全開で本気でやるわ」と舞い上がってしまった。もちろん実際はまだ子育てや家事は続くのだろうけど、子どもがそう高らかに宣言したときに、カチリと音をたてて人生が変わったような気がした。

とりあえず、日々の暮らしに(まあ、家事と育児と日銭稼ぎのアルバイトかな)忙殺されて疲れたまま、ずっと解決できずにいたことを片付けてしまおうかと。まずは10年書けなかった博士論文をなんとか提出したいのよね(笑)。とりあえず博士論文の構想の一部として、5月に沖縄の琉球大学で開催されるアメリカ文学会で研究を発表する予定。私の今回の研究のメインテーマは、Toni Morrison(トニ・モリソン)とSlave Narrtive(奴隷の自伝)とAfrican Cosmology(アフリカ的世界観)についてです。ちゅうか、テーマがこんなに分裂していたらまずいし。ええと、この発表はすでに破綻していますね(笑)!直します。

さて明日の予定は、朝から夜までレコーディング。明日は、古庄くんのベースを主に録る。私は他人に対して、理由もなく威張る癖があるので、ぜひ明日は気をつけたい(微妙なメンタルが録音には影響しますからね)。それが終わったら夜は家族や友人と中華料理をぜひ食べに行きたいな、と思っている。12年、子育てをこれまで真面目にやってきた、その打ち上げをしようと思ってね。ささやかな喜びも、なかなかいい。しかし12年にふさわしい、ものすごく強く大きな喜びが、明日は押し寄せてくるはず!もう、いいのよ。もう、終わるのよ。自分が好きな、新しい物語を作っていいってことなのよ。
posted by minemai at 02:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2009年04月16日

ラジオ出演

まず、宣伝を。今週の金曜日、4/17(金)に、cross fmのmorining gateに、朝7:30頃より、生出演の予定です。
朝から元気いっぱいの予定です。
通勤で車の運転をしながら、チューニングを合わせてみて下さい。福岡県全域です。ひょっとしたら山口も下関ならば入るかしら...?

***
さて、毎週水曜日に更新中の『週刊 みねまいこ』ですが、昨日からパソコンを前にずっと頭をひねっていて何時間もねばっていたけど、しかしまったく書けずにとうとう日付変更線を超え、なんと木曜日の明け方になってしまいまいました。書けないときは書けません(楽しみにしていた方は、ごめんなさい)。

どうも書けないときには理由がちゃんとあるもので、分析の結果、以下の3種類のようだ。
1)外国語を使う必要があった場合、日本語の回路にしばらく切り替わらない
2)自分の中で、ものの味方や世界像が変わることがあった場合、これまで信じていた言葉をいったん疑ったり、手放す必要に迫られている
3)なまけている

今回は、1〜3の全部が同時に起きており、筆が進まない。お手上げだ!ただ、2番がやってくることは滅多になかったのだけど。

なんというか....うーん。「頑張ります!」
そのかわり、来週の水曜日の更新は期待してて下さい。
書けない日は、シッポをまいて逃げます!
posted by minemai at 02:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年04月09日

着物という妄執

こんにちは。1年に1回くらい天才になることがある、みねまいこです。「筆舌に尽くしがたい」ほどに多忙のため、今週の『週刊みねまいこ』は数日延期します(タイトルだけ、UPしています)。

さて、改めましてこんにちは。4/5(日)、世界激場関連の勉強会、JIYU-KENKYUがありました。そちらで報告を行っています。興味のある方はどうぞ。

4/9(木)には、公開リハーサルを親不孝通りのKING BEEで行った。第一部、第二部とやって、第二部はほとんどセッション。ブルースコードをベースに即興で私とバンドで曲を構成していった。最中にある感覚が沸いて楽しかった。それは8分休符や16分休符が目の前にはっきり見えたということ。今回はMacとの同期はまったく行わず(打ち込みは無し)バンドだけのシンプルな演奏だったけど、そうなると音数が極端に少ない。結果的に、ボーカルの次のフレーズは16分休符遅めに待って入るとか、そんな息継ぎのような「間」を手に取るように簡単に作れたので、そこが楽しかった。ひどくひどく、楽器の音と音の隙間、一瞬生まれる「間」をかぎとっていた。以前、ジャズバーで歌っていたときの、ミュージシャン同士の皮膚感覚レベルでの勝負!みたいな感覚が蘇った。こういうのもいいと思う。むしろ、こっちの方が私にとって正しいのかもしれない。

面白かったのが、第一部終了後に、お客さんとして来てくださったご夫婦が「長男の嫁に...でも、あなたはもう、どなたかいらっしゃるんでしょう?」と縁談を持って来てくださったことだった。ティファニーの宝石商の方だった。ときめいてしまう。何に?思いがけない縁談に?ティファニーに?ふふふ。あなただったら、どっち?わたしの場合、こたえは、、、。

さて、今日は着物の話をしたい。実は世界激場関連のJIYU-KENKYUで、辻井喬『伝統の創造力』を読み、報告する機会があった。その際に、一度正面から伝統と取っ組み合いをしてみてもいいのでは?という気持ちになった。伝統というと、日の丸とか君が代とか神道とか神風とか侵略戦争を思い出すものか、もしくは男たちだけが活躍できる芸能(歌舞伎、能など)や技術(寿司職人や、宮大工とか)しかなく、女の私にはアレルギー状態か、選択肢がないというしろものだった。

唯一、女性にできそうな伝統的職業といえば、海女さんみたいな仕事はありそうだけど、寒い海に入りたくない!海といえば!ところで全然関係ないが、オペラはなぜあんなに面白くないのだろうか。音の迫力はあるけどストーリーが目も当てられないくらいにひどい。弱い女がたいてい男のために尽くして、やっぱり弱いから女が病気なんかで死んで終わる。そこで思うのだけど『ジョーズ』なんかをオペラにすると良い。以下、ジョーズのテーマで歌って下さい。「サメ、サメ、サメ、サメ、サメだー」って大舞台で大迫力だと思う。まず成功すると思う。あとは『ゴジラ』とか。以下、ゴジラのテーマで歌ってみてください。「ゴジラ、ゴジラ、ゴジラとメカゴジラ」みたいに歌って、オペラ歌手が闘うわけよ。すごくいいオペラになると思うよ。小道具をしこんでおいて、舞台で火なんか吹いたりしてね。ね。素敵じゃない?

話を戻すとですね。一度、敬遠してきた日本の文化を正面から受け入れてみようかと。それでたぶん、伝統なんていっても時代によって「ねつ造」された部分はたくさんあるんだけども、それでも自分にとって「信じるに値する伝統とは何か?」っていうことを考えてみようと思ったわけ。

忙しい合間、博多駅のそばの喫茶店でコーヒーを飲みながら外を見ていた。すると横断歩道をコリアン系のチマチョゴリ姿の女の子たちが風に吹かれて信号を待っていた。チマが花のように大きく膨らんで、天国にいるみたいな気持ちになった。そして私は、日本の着物が着たいと思った。

そうこうしていると数日後、着物を着る機会があった。

kimono3.jpg

※スキャンの際に、画像が反転しているため、
打ち合わせの左右が逆になっているように見えています。

帯は人間国宝の金糸の帯。桐の箱に入っていた。着物は、これは手で柄を描いて染色しているわけではない。なんと総刺繍、すべての柄が糸で一針一針、糸は微妙な色で陰影がつけられ、すべてが刺繍で表現されていた。圧巻の着物だった。地の色は、水色。もちろん上には上の着物があることは知っている。何千万もするような。私の着物はそこまではいかない。だが袖を通しただけで、心が通った。だから、いい着物だとわかった。見る人が見たらわかるのだろう、着付けの人が「あっ!」と言い、帯からえり、小物に至るすべてが完璧に計算しつされていると言った。福岡の博多座の前を歩けば、着物を着て観劇を楽しんだ後の老婦人の団体を黙らせ、街を歩けば知らない人から「そのお着物の写真を撮らせて欲しい」と言われた。

これは、私の祖母が私に作ってくれたものだ。祖母は富豪でもなんでもない、サラリーマンだった優しい祖父がいて、ずっと年金生活者だった。料理が上手だった。普通の生活をしていたと思う。ただ、着物だけは「狂気」と言ってもいい。月賦をくんでも、自分の思う最高の品を買っていた。私が作ってもらった着物はこれだけはない。他にもあって、もし自分の命の危険にさらされるくらいに生活に困ったときに質に入れてしまおうと、大学生の頃姑息なことを考えていたこともあった。幸い、そこまで悪党になる勇気はなかったのですべて着物は手元にある。今思うと、とんでもないことだった。一度手放したら、二度とめぐってこない。また、これだけの着物を作れる作家も、どんどんこの世からいなくなる。

いろんな柄がある。どれも品がある。色に目がさめる。見ていると、私も狂ってしまいたい。

祖母は数年前から、痴呆で病院にいる。お正月に着物を着てお見舞いに行ったことがあった。もう今では誰のこともおもいだせない。祖母は、何も思い出せない自分が悔しくて、ぽろぽろ泣いていた。私の顔を覗き込んでじいっと考える。でも思い出せない。それが悔しくて、また泣いている。祖母は私が子どもの頃から、私の額と、お尻の形が美しいと言っていた。病院で両方を見せるわけにはいかないが、とりあえず前髪を上げて額を見せた。それでも効果はなかった。

帰るときに、びっくりしたことがあった。着物のそでをつかんで離さないのだ。そして、着物の柄を何度も撫でて、手のひらで絹の清らかな暖かさと、重みを確かめていた。着物だけは、覚えているのだ。自分が審美眼のすべてをかけて見極めて選んだ柄、色、そしてそれに合わせて選び抜いた帯、小物。全てが彼女の愛したものであり、彼女の狂気だった。

たぶん、こういうことだと思う。伝統というものは、誰か一世代、一人でいい。異様なまでに何かに精力を注ぎ込んだら、意図せずして残ることがあるのだ。しかし何に夢中になるかは、本人の才覚によるところが大きい。

祖母は若いときに戦争があって、あまり着飾ったりできなくて、それでも江戸時代の祖母の祖母や明治時代の祖母の母たちが、もっと昔に美しい佇まいで水仕事をしたり、身のこなしの中の優しさとか、鏡の前で年に何度か一番いい着物を着てめかしこんだり、そんな記憶が残っていたと思う。そんな豊かな生活の風景があって、着物を買えるようになったときに、一気に自分の中の記憶の美を放流し始めたのだと思う。

私は、日々洋服を着て生き、西洋音楽で生きている。西洋音楽はいつも他人の顔をしている。かといって日本の古い音楽と、心をひとつにすることもない。また両者を混ぜるような、下品なこともしたくない。大正生まれの祖父母の記憶までしかなく、さらには、空爆で風景は大きく変わった。戦後は世界中どこを探しても、こんなにやりたか放題、街を壊しては作り、大型店が恥も知らずに増殖する国はない。しいていえば、新自由主義を徹底させたアメリカも、日本に近いが、日本ほどではない。一方で、靖国やサムライジャパンが日本の伝統として(ちょっと違うか)あがめたてまつられている。伝統とは、靖国のことではない。伝統というものは、一人の人間の中に生まれた狂気のことだと思う。それを時間と共に発見し、感動しつづけることだと思う。

posted by minemai at 10:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年04月01日

毎日新聞に掲載されました

最近、丑の刻参りをしている、みねです。と、のっけから大嘘ですが、こちらは本当。3/28(土)の朝刊に、かなり大きなスペースで記事が掲載されました。

mainichi090328.jpg

読みながら、少し想像していた。ひょっとしたら刑務所にいる人が読むだろうか、誰かが爪を切るのに使っているだろうか、虐待を受けていたり、あまり幸福な子ども時代とはいえない女の子、しかもその不幸を言葉で表現できないまま、気持ちがいつもふさいでいる女の子が読んでいるだろうかとか、思いめぐらしていた。

さてさて、文中に出てくるイベントは世界激場といいます。公式ブログはこちらです。毎月の勉強会は、誰でも参加できます。お気軽にどうぞ!

これは告知です。みねまいこ&30インチ、公開リハーサルを4/9(木)福岡市内で行います。こちらも、お気軽におこしください。
posted by minemai at 02:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2009年03月25日

ハンキンナイト/スピード

今日は先週のライブの報告に徹します。だから今日のブログは、それほど面白くないと思う。たんなる記録の列挙が多いので。

3/21(土)に、博多のプレアデスというライブハウスで出演した「ハンキン・ナイト」。これは、満員御礼で終了した。出演依頼を受けて即席でこの約2週間くらいの間にバンドを結成したので、音楽的には、残念ながら15〜18%くらいのクオリティだったかなと思う。これが自分のソロライブだったとしたら、お客さんに髪の毛をひっぱられて、唾をはかれても文句は言えなかった。しかし、この日のメインはウィーンから来日された内橋和久さん(UAのバンドリーダーもなさっている方)だったので、私は前座だから気楽だったぞ。(←反省がないな!)

内橋和久さんは、私のステージの感想を、一言「衣装が良かった。」とおっしゃった(笑)。あ、音楽が良かったわけではないわけですね、わははは。その日私は、半身が拘束着になっている服を着て歌ったのだった。さて、彼の演奏には、ノックアウトされた。最初のギターの一音。たった一音で、鳥肌が立った。なんじゃこりゃ、なんだこの音のオーラは。なんでこんな音が出せるのだ。たった一音、最初の一音で「ただことじゃあないぞ、この人のギターは」と思った。ものすごかった。最初から思わずスタンディングオベーションしそうになり、後ろの人の邪魔になると気がついて息をつめてやめた。それくらいにすばらしかった。こんな才能のある人がこの世にはいるんだなあ。神様ありがとう。幸福な気分だった。

さて、この日は毎日新聞の取材がライブ中、ライブ終了後に行われた。3/28(土)の毎日新聞の夕刊に、掲載予定。エリアは九州全域です。でも、大きな事件があれば、どんなに優秀な記者の記事でも、私ごときのネタだとふっとぶかもしれないので、確定とは言えないけれど...。でも、九州在住の方は、3/28(土)の毎日夕刊を買って読んでみて下さい。←注!「朝刊:福岡エリア」のようです。

以下のライブの写真は、「せん」さんが、たくさん提供してくださいました。ありがとう。(注意:最初の会場の写真は、私が演奏しているときの様子ではなく、たぶんこの日の最後の方の様子だと思います。)(参考:ギター=大将ゆうじ、ドラム=渡辺ハンキン浩二、ベース=古庄竜太、キーボード=高木一宏)
588788354_26.jpg588729735_207.jpg588729735_86.jpg_DSF1632.JPG.jpg588788354_132.jpg
_DSF1482.JPG.jpg_DSF1452.JPG.jpg_DSF1418.JPG.jpg

以下の写真は、佐藤直樹(現代評論家、刑法学者)がアナログのカメラで撮影してくれたものです。
mine4.jpeg
mine3.jpegmine2.jpegmine1.jpeg

とまあ、こんな感じでした。来て下さった方々、どうもありがとうございました。いろんな方からご感想をいただいたのだけど、中でも多かったのが「楽しそうに歌っているので観ていてこっちも楽しい」というコメントだった。いいえ!ちがうんです!楽しそうに歌っていたというよりは、この日、余りの自分のヘタさにびっくりして、恥ずかしくて笑ってしまったのだ。なんだろうね、まったく歌手で歌がヘタだというのは、死罪だね(笑)。そうそうこの2週間で、バンドがやっと流れに乗り始めたので、ついでにボーカルスタイルも変えちゃおうと思ってる。どんどん変える。昨日の失敗なんか知らない。

新しいバンドは、30インチという名前にした。みねまいこ&30インチ。ギターは、めんたいロック出身のベテラン、大将ゆうじさん、ドラムはオンゴロというプログレバンドをされており(昨年CDジャーナルなど各誌で取り上げられた)、内橋和久さんの瞬間音奏で即興演奏をしたり、過去には頭脳警察というバンドの助っ人をなさったり鮮やかすぎて全貌は不明。彼の名は渡辺ハンキン浩二!新加入のベースは古庄さん。古庄さんはですねー。泣く子もだまる、メタル出身だ!しかも練習のオニ。

バンドの名前30インチは、W.H.オーデンの詩からの引用だ。あまりにも異なるジャンル出身である各プレイヤー。最大限に各人から能力を引き出すには、個人の領域を守りつつ、バンドとしても両立できるような関係性(音楽性)が必要だと思ったので、それを意図して、つけてみた。また一方で、互いが30インチの内部に入ったりもできる親しい関係性も、ときには必要だしね。両面の意味でつけたともいえる。

私の鼻先三十インチに

私の人格の前哨線がある。

その間の未耕の空間は

私の内庭、直轄領

枕を共にする人と交わす

親しい眼差しで迎えない限り

異邦人よ、無断でそこを横切れば

銃はなくとも唾を吐きかけることもできるのだ。
___
きゃー(W.H.オーデンにたいして)。

さて、ハンキンナイト終了後は、中洲の「ふとっちょ」だか「ふとっぱら」だか、どっちか忘れたけど、飲み屋へ、打ち上げに直行した。内橋和久もいらっしゃっており、どきどきした。しかし、明日公演があるとのことで、内橋さん他、早めに(といっても夜中でした)帰られた。で、残った私がおり、そして先日うちのバンドを脱退したなんとベースのこーち君がおり(じつはこの日彼は、内橋和久&瞬間音奏で出演していた)。さあ!眼鏡をとれ!(こーち君は別に眼鏡をかけてないんだけど)私と彼、1対1でケンカ&殴り合いだ。なんて面倒くさいことにはならない。みねまいこのバンドのオリジナルメンバーと新メンバーみんなでわーわー。しかも旧ベーシストと新ベーシストが真顔で語り合っている(注意:私の悪口ではなく、エフェクターについて話していたようでした)。結局、午前3時までみんなわーわーいってた。帰宅して、ライブを観に来てくれていた、現代アートのソン・ジュンナンからもらったピンクのカーネーションを銀色の花瓶にいけて、お風呂に入ったら朝だった。

バンドの次に必要なの、スピードよ。
あなたは、どうするつもりなの。
posted by minemai at 00:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年03月18日

巨大な後悔の怪物

先週、NHKの「プロフェッショナル」という番組を観ていたら、なんてことはない、知り合いが出ていたので驚いた。奥田知志という北九州の教会の牧師だ。奥田さんが北九州の夜の街を、路上生活者に声をかけては、もくもくと歩く。彼の仕事の特徴は単なる支援ではなく、社会復帰をさせるところにある。路上生活者の社会復帰率は全国でも驚異的な業績をあげているとのこと。そんな彼とは10年前、九大大学院の修士課程1年で知り合った。自分は社会人入学であり、普段は牧師で路上生活者の人を支援する仕事をしていると、本人からきいていた。そのときは「へえっ」と思っただけだった。

当時の私は寺園嘉基先生(ナチズムに反対したドイツの神学者カール・バルトの研究者)という先生の下で、黒人神学/黒人霊歌を研究していた。奥田知志さんは、ボンヘッファー(カール・バルトと同じ時代の人)という神学者の研究をされていた。で、私は自分の研究に(人生に)疑問ばかりを感じていた日々で「(やったこともないのに)フッサールの現象学がやりたい!」など大学院入学そうそう、突如無謀なことを言い出した。それに対して「おやりなさい。」とゴーサインを出してくれ、(やったこともないから)ドイツ語から始めることになった。そこでもともとドイツ語が必要な奥田さんと私、寺園先生の研究室で二人肩を並べパイプ椅子におさまり、私がてんで初心者でついていけないため、ドイツ語の基礎から習った。しかも最終的に私は現象学をやる才能が絶望的にないと気がつき挫折したため、習ったご恩に報いることはなかったばかりか、もうドイツ語は忘れてしまった!まさに合わせる顔がない!でも不思議なのは、こうやって他人から献身的に教えてもらったことは、それが短期的な費用対効果のようして外に出て来なくても、こうやって自分の中で後悔とか、感謝として、いつまでも散ってはいかずにずっと残っているってことだ。

で、テレビで奥田さんの姿を見て興味をひかれたのは、あなたにとってプロフェッショナルとは?の質問に「使命の風が吹いたら、自分の都合や好き嫌いを断念できる人」という主旨の話をしていたことだった。たぶん、聖書の箴言16:9「人は心に自分の道を考え計る しかしその歩みを導く者は主である」のことかな?と思った。私が、いちばん苦手な聖書の句だ。Aの方向に行きたい、もしBの方が広い視野(神の目と言ってもいい)でみれば正しいとしても、自分の好きなAの方向に行く。Aでは失敗して、ずいぶん痛い思いをする。なんてことをさんざんやった気がする。人生の終わりに私は、貴重な時間を無駄にしたという「巨大な後悔の怪物」になっているのだろうか?いやいや、そんなくだらないことを考える暇があったら、早起きして新聞配達をした方がいい。もしくは曲のひとつや、ふたつ作ってみろ。そして、次はAではなく、Bを選んでみようか?自分好みのAではなく、自分の理解を超えた不可解なBを!

奥田さんが研究されていたボンヘッファーは、ナチズムに対し異をとなえる行動を起こしたことで殺されてしまった神学者だった。いわば、自分の信念に誠実であることを前にして、自らの生命をも断念した人だったといえる。奥田さんには、一緒にパイプ椅子におさまっていた頃よりも、ずっといい顔をしていた。「おお!奥田さんってば、日本のマリア・テレサじゃん!」なんて思った。

番組司会者たちのブログ(興味のある方は参考まで)
http://www.nhk.or.jp/professional-blog/100/16847.html
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/professional/2009/03/post-8953.html
posted by minemai at 14:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年03月11日

ソン・ジュンナン

現代アートの作家とお会いした。彼の名はソン・ジュンナン(SONG, JUN-NAM)氏。最近になって偶然この作家を知った。彼は神戸出身、今は福岡で活動をしており、しかし今月末で福岡を離れるとのこと。彼のアトリエは第三倉庫にある。そこは匿名の方が正体を現すことなくずっと「あしながおじさん」として支援している場所。そこに遊びに行った。

行く途中で迷い、とうとう海に出た。向こうは対岸、韓国だ。海にパナマ船が停泊していた。船乗りのおにいさんたちが船上から手を振る。私も手を振った。日本に上陸するのには、なにか許可がいるのだろうか?船に乗ったままで、じっとこちらを見ている。私は船を見上げ、一瞬互いに共通の言語を探し、そしてどちらからともなく諦めるのを感じた。言葉の代わりに、笑顔で手を振った。

ソン・ジュンナン氏と話をし、彼のアトリエにもお邪魔して、まさに作品を制作する場所を写真に撮らせてもらったけど、作品と現場はまったく別個の物だという気がするのでここでの掲載はひかえたい。

第三倉庫でのソン・ジュンナン
11032009.jpg

アトリエを見せてと私が頼んだら、
そっとご自身のアトリエをのぞいていたソン・ジュンナン

11032009(002).jpg

私が、藤田嗣治でもなくレオナルド・ダ・ヴィンチでもなく、他の誰より彼のことをいい!と思ったのは、ソン・ジュンナンが今を生きているからだ。極論かもしれないけど、私は死んだ人には興味がない。そして彼の作品は、私たちの生きている時代が刻印されている。自分が生きていることを、再確認させてくれる。私にもっと息をさせてくれる。そうじゃなくっちゃいけない。私はもっと世界を愛したい。
posted by minemai at 23:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記
Copyright (C) 2003-2007 みねまいこ. All Rights Reserved.