2009年10月07日

現在をなつかしむ シリーズ(2)海賊的資本主義

前回にひきつづいて、なんとこちらも更新中です。

多忙な上に(出張と、いくつかの締め切りと)、自分の能力以上のテーマを自分で掲げて、日々自分で刈り取るはめになっています。こまったなー。でも、ぜったいに書いてやる〜。

P.S. 世界激場関連のプレ勉強会、JIYU-KENKYUの10月分のレポートがUPされています(興味のある方は、どうぞ)。
http://sekaigekijou.jugem.jp/
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2009年09月30日

現在をなつかしむ シリーズ(1)WEB

更新中です。
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2009年09月24日

前置き

 (毎週水曜日の更新が遅れ、今日は木曜日です)水曜日は無計画に夜遊びしており、すっかり帰宅が遅くなった。友達と音楽を聴きに行って、踊って、楽しい気持ちで帰ってぼんやりしていたら夜が更けていた(あ、もう木曜日の朝だ…というように)。昨夜、その友人(女の子)は、神様が最近つくった新しい生物のように、フロアの中央で踊っていた。うん。そうこなくっちゃ。
 一方で私は、2拍の拍子の曲ならばすぐに踊れるけども、4/4のリズムは極めて苦手だと気がつく。感覚として、体を動かしたときにリズムがまだ2拍余っているので、計算が合わず恥ずかしい気持ちになる。ダンスフロアは、ミラーボールの下でまじめに考え込む。よく考えたら人間は2足歩行だった。4/4は馬車とか、スムーズに走りぬける車とか、乗り物特有のリズムのような気がするんだよ。ちなみに船や川の流れは3/4だと思うな。これから自分が作る曲で、もう四角四面のきっちりした4/4は作らないと思う。このリズムには、私にとって未来がない。
 さて、世界激場のプレ勉強会の「JIYU-KENKYU」で、この間いろんな本を読んで勉強会というのをやっているんだけど、自分なりに最近ようやく答えが出そうな気がしている。JIYU-KENKYUでやってきたことは「今がいったいどういう時代なのか?特徴を見極めること」シンプルにいえば、そういうことだと私は個人的に思ってきた。「世界大不況」というのは単なる経済の話じゃなくて、本当はだれでも漠然とそれを何かの「大転換期」だと思っているんだと思う。これまでのやり方が通用しないとか、ひとつの時代の末期症状だとか(問題なのは今、その渦中にいるからよくわかんないんだ)。
 年表を書いた。巨大な年表を!空いた時間をみつけながらExcelを使って書いたけど、それでも1週間もかかってしまった。私が関係していると思う時間、歴史を、思い出して記した。紀元前からの世界史の年表と、日本史の年表と、自分の個人史を、混ぜてひとつにしてみたわけ。こういう事件が起きたとき、自分は何をしていたかとか。そうすると大きな流れの中で、今の「世界像」を少し相対化できた気がしている。
 以上をふまえて、これからシリーズとして何回かにわけて、「今はいったいどういう時代なのか?」考えたことをまとめて書いていきたいと思う。かなり無謀だけど、やってみる。

10/4(日)JIYU-KENKYUの出席者をまだ募集しています。
http://sekaigekijou.jugem.jp/
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2009年09月16日

ワインはお好きですか?ハムはお好きですか?

今は、日本にいる。最近の2ヶ月のことを、一番最近から、過去にさかのぼって述べる。2ヶ月で、あまりにいろんなことがありすぎて、人格すら変わってしまった気がしている。さて、今週から、週間『みねまいこ』は、これまで通り、毎週水曜日に更新する。ちなみに水曜日に更新している理由は、韓国の日本大使館前の「水曜デモ」に合わせているから。


「某都市、プラハ、マドリード:8月〜最近」

@某都市
 プラハでライブするために、ヨーロッパに向かった。超格安航空券で行ったのに、さらに無料でヨーロッパ内を移動するチケットもおまけで付いていたので(どうやって採算を取るのだろう?)、まずは、某都市に住む友人C会いに行くことにした。2005年の夏に欧州プロモーションのSnigelに連れられてドイツでプロモーションをした際に、紹介してもらった人だった。
 「音楽と空間」part(1)、そしてpart(2)を書いたが、日本のライブハウスをめぐる問題を考えるきっかけになった店Xが実は某都市にあり、そこに彼女と出かけることにしたのだった。2009年に、はたしてその店はどうなっているのだろうか?その前に簡単に店Xの説明をしたい。
 問題の店Xがある某都市は、旧共産主義国だ。そのことと関係があるのかどうかは知らないが、店Xは、いくら食べても、料金は「あなたが決めて下さい、満足したぶんだけお支払いください。」というシステムだ。ワイン、サラダ、パスタ、デザート、パン。これだけのメニューで、じゃんじゃんテーブルに並ぶ。客は皿に好きなだけついて、うろうろしながら食べるのである。その店が果してどうなったか?
 友人Cとでかけた、某都市の店Xは、残念なことに今では観光客に占拠されてしまっていた。イタリア人とアメリカ人のバックパッカーが大勢で押し寄せて来ては、長居して、わずかな金で大量に飲み食いしては帰って行き、さらにはその情報をたよりに別のバックパッカーが…という見事な悪循環になっていた。つまり、地域のコミュニティーや、地域の若者がふらりと寄って、継続的に店にお金を払いつづけ、大きな黒字は出ないが赤字も出さないようなぎりぎりの経営が可能、そんな条件が、みごとに壊されていた。つまり、「食い逃げ」に近い。
 それで、店Xはどうしたか?なんと、Yという店を新たに作った。もちろん同様のシステムだ。そのYができたのは、おそらく2005〜2008年の間だろう。その店Yは大量の観光客にへき易した、地元民が集う新たなスポットとなった。そして最初の店Xは完全に、観光客仕様として、切り盛り。地元民は寄り付かなくなり、新たな店Yに地元民は移動した。だが、観光客にかぎとられ、Yにも押し寄せてくるのは時間の問題かもしれない。
 しかし、ここからが面白い。なんと経営者は、間髪入れず店Zを作ったのだ。その店は、地元民ですら、見過ごしてしまうような場所にさりげなくあり、ベビーカーを押したお母さんとお祖母さんが、一杯ひっかけにきていたりもできる。落ち着いた住宅街にあった。バス停もなく、電車もない場所だった。つまりこういうことだ、その店は「店を作っては逃げ、作っては逃げ」ている。やり方としては、非常に面白いと思う。
 友人Cは、自分の仲間を呼び出してくれ、歓迎会をやってくれた。普段は南アフリカで仕事をしている人や、スイスで働いている人、ブルガリアから働きに来ている人々、私も含め計8人で、店Zに集い飲んだ。帰り際、支払いということになり、友人Cが皆の分をまとめて払いにいくと、店長が出て来て「あなたがたはあまりにも飲んだから、これじゃ足りない。」と言って少しもめた。たしかに皆相当に飲んでいたので、それは納得のできる主張だった。
 友人Cは、「MAIKO以外は(私は酒は飲まなかったから)、もう10ユーロずつ出して」というと、仲間の男性Bが断固として拒否するのだった。「ここはもう、社会主義じゃないだろー。完全に社会主義的なやりかたでやるんなら、この店のポリシーとしてつらぬくべきだろー?金額が足りないっていうなら、それじゃたんにここも他の店と同じだろー?納得できないね。おれは、今日はこの金額を払うと決めたんだから、これしか払わんー」と。
 友人CとBの間で議論が始まる。それで、ほかの仲間もきいてる。そのうち、BとCの間で出た結論をたずさえて、友人Cが店長と話にいく。店長が意見を述べ、それを友人Cが持って帰って、またこっちで相談。それが幾度かくりかえされる。最初はきいていて面白かったが、しまいには私も飽きて来て「私が10ユーロを払うわ。うちらの内、誰が払っても同じでしょ?10ユーロプラスするしてもいいくらいは満足したもん、私が払うわ」と言うと、Cが「Bの良心が問題なの」と、お金を戻される。
 数十分経過する。結局Bが折れたのだった。店で食事をするのに、社会主義と資本主義について、人々の良心について話し合う必要があるって、面倒といえば面倒だけど、面白い店ではある。2005年は、Snigelがレジで彼の哲学にもとづき多めに支払いをした(詳しくは「音楽と空間part2を参照)。だからモメなかった。しかし、今回はたまたま出した金額が少なかった。実は、その経営方法について、今回の店Zの店長に質問してみたが、彼は英語で話すのがしんどいようで、途中で途切れてしまった(その気持ちよくわかります)。わかったことは、NPOがやっているのでもなく、どこかのお金持ちのアメリカ人かだれかが趣味でやっている店でもない、ということ。いずれまた、この店に行って、今度はもうちょっと経営の仕方を聞いてみたいと思った。

@プラハ
 最初に結論を述べると、残念なことに、プラハでライブはできなかった。風邪で体を崩して、ずっとホテルで寝ていたのであった。プラハに住む友人のハンガリーの女の子が、薬やら食べ物やら世話をしてくれようとしたけど、元気にならなかった。大ボケだ。なにをしに、ヨーロッパ「くんだり」まで来たのやら。あまり記憶もない。街の印象もない。プラハは、五木寛之の小説で読んでいて、さぞ雰囲気のある街だろうと思っていたが、色んな意味で寒々しい街という印象だった。熱でうなされていた。これは熱が出る前の写真です。
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 とにかく残念だった。昼間なまり色の空を見て、夜は書き物をして、朝は午前3時頃に目が覚めて、夜遊び帰りの人たちが乗る路面電車をうつろな気分でながめていた。
 「くんだり」で思い出した。そういえばクンデラの『存在の耐えられない軽さ』はチェコが主な舞台だった。しかしあれはプラハ市内ではなく、ブルーノという街だった。しかし、カフカがいたではないか。でも、カフカの雰囲気も無ければ、カフカの恋人、ミレナがパタパタと軽やかに、衝動の赴くまま、おてんばに走り回っていた面影もない。プラハへの感情を高めようとしても、なにも湧かなかった。きっと、ここは、共産主義が終わり、ロシアの支配が去り自由になった!という喜びもつかの間、別の支配が始まっただけの街なのだ。その名を資本主義という。
 しかも、わたしたちは戦後、資本主義が高度になった過程を経験したあとで、90年以降、新自由主義を経験しているだけだから、耐性も批判もできる体力がまだある(と、思いたい)。だけど、防波堤もなにもないまま、新自由主義の波が一気に押し寄せたら、いったいどうすりゃあいいの、資本主義の実体が明らかになるにつれ、こんなはずじゃなかったと、国民全員が、いっしゅんパニックになったのではないかと推測する。
 こ難しいことを言ったが、それはたとえばこういうことなのだ。ある日、私はホテルの向かいにテスコという大形スーパー(ダイエーみたいなもの)があって、そこにふらふらと買い出しに行ったわけ。ひとりの老婦人が、ボロをまとい、カートに支えられているのか、カートを押しているのかわからない足取りで進む。「お買得!大容量!」とおそらく書いてあるパック詰めの1人で飲むには多すぎるオレンジジュースを、ぷるぷると震える手で、カゴに入れた。この人は、少女時代に第二次世界大戦があり、成人してからはロシアの占領、長い冬があり、体制が変わり、春がきたと思えば、老いていた世代、70後半〜80代だろう。そして、その長く待ち望んだはずの西側の「自由」の行き着く先が、ダイエースーパー。正義って何よ。
 20代や10代はフットワーク軽く、英語を覚え、仕事にありつき、可能性があるような雰囲気をまとっていた。でも、30代〜40代は、とっくに学校教育を終えるころに体制が変わったので、人によって異なるだろうけど、それでもみんな大なり小なり、きっと1から生きて行く別のやり方を見つけて、「再社会化、再チャレンジ」というのをしなければならなかったんだと思う。大変なことだよ、それは。ともかく全体として、街を覆う雰囲気が、暗く重く、ずっと資本主義社会育ちのノー天気な私でも、旧共産圏の怨念のようなものを感じ、それが重くのしかかった。それで、つらかった。ライブもできなくて、気が滅入った。
 街を出る前、友人のハンガリーの女の子が、綺麗なMoserというブランドのチェコガラスでできたピアスを私に送ってくれると約束してくれた。それで、日本に帰ってからは、毎日郵便受けをのぞく日が続いているんだ。

@マドリード
 さて。帰りに寄ったマドリードでは、全快し、こんな感じ。元気。
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ここでは、ひょんな成りゆきで、滞在先のホテルにたのまれて日本からの国際電話で、日本語から英語への通訳をした。電話の通訳どころか、通訳の経験が初めてで、緊張と疲労で汗だく。でも、すごくうれしい。誰かに必要とされるのは、嬉しかった。報酬は、ルームサービスてんこ盛り。「ワインはお好きですか?」「ハムはお好きですか?」おかげでひさしぶりにワインと、おいしい食事にありつけた。金子光晴の詩をふと思い出した。金子光晴の「パリ、初めて異性にふれたのもパリ」というくだりが、「マドリード、初めて居場所を得たのもマドリード」という言葉に置き換わった。街が「おいでおいで」と言っている気がした。脳が舞い、闘牛でもしかねないほど(もちろん私が牛ね!)、全身に力が満ちていた。
 ところで、以前にスペインはバルセロナで一緒にステージで演奏したバンドのメンバーを会うことがあった。イタリア人なのだが、イタリアがベルルスコーニ政権の間は、イタリアに戻る気はないと言っていた。それでイタリア以外のEU圏内で仕事を見つけては働いているようだった。彼曰く「みねさんのバルセロナのライブの際の他のメンバーは、知らなかった?マヌチャオMANU CHAOのバックバンドだよ、そんでドラマーは別件でテレビによく出てるよ、テレビつけてみー。」とのことだった。なるほど、それでものすごく歌いやすかったのだ。バンドのリズムも音程も、ボーカルに吸い付く感じで、心底楽しかったのだった。マヌチャオのバンドの人たち、力量のあるいいバンドだった(マヌチャオ氏のCDには、正直あまり興味がないのだけれど...器用な方だなとは思う。こほん)。
 一方で、自分の日本の今のバンドを思うと、憂鬱な気持ちになった。今のバンドを100%鍛えるか、メンバーを不特定多数にして可能性を試すか。言っていることが、ちょっと妙だけど、これまで音楽と思っていたのは音楽じゃないって思う。ぜんぜん音楽じゃない、私は何やってたんだ?あー、いっぺん終わった。そんな気持ちで、マドリードのスターバックスで「オレンジジュースちょうだい!」と言って、ボーッとしていた。
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「日本、フクオカ:8月上旬」 
「世界激場」の勉強会、JIYU-KENKYUは、夏休み特別スペシャルで、現代評論家の佐藤直樹を招き、話をしてもらった。その様子については、こちら。今後も月に1度の勉強会開催。参加者も募集。ブックマークもよろしく。世界激場のホームページが、きれいにリニューアルされている。こちら。
http://sekaigekijou.jugem.jp/


「日本、トーキョー:7月下旬」
所属芸能事務所、アフロディーテの社長と会う。いろいろお世話になる。


「ニューオリンズ:7月」
 渾沌が深く堆積した場所だった。整とんや、法や、キリスト教は、湿度と暑さと邪教と、甘い油菓子によって、放逐されていた。もちろん警察もいるし裁判所もあるし教会もあるのだけど、「そんなもん、信じないっ。いつも心にあるのは、道徳を失う快感っ。」そんなスローガンが目をこすると、青空に見える気がした。
 私は、昼間はチュレーン大学のアミスタッドリサーチセンターに通い、夕方から朝にかけては暴れたのだった。昼間のまじめな話ははぶく。今、論文を書いている。そのほんの一部分が2010年の3月に本として出版される予定なので、それで読んで欲しい。

チュレーン大学のアミスタッドリサーチセンター。この日は雨。
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 さて。夕方から朝にかけては音楽しかやらなかった。欧州プロモのSnigelをダブリンからわざわざ来させるわけにもいかなかったので、自分で交渉して演奏活動をせねばならない。つまり、面倒くさい。それで、ストリートで演奏して日銭をかせぐミュージシャンの仲間に入れてもらうことにした。暑い。どうしよう。アカペラグループが歌っているのに出くわしたので、「いまだ」と思い、観客の中から彼らの演奏に合わせ私が大声で歌った。必然的に、彼らを取り囲む観客の注目は私に集まるわけね。それで、アカペラグループは「きみい。そこで歌われたら迷惑なんだよね、こっちに来い!!」という経緯になったのだった。成功です。なんて私はずるがしこいのでしょう。
 自己紹介するけど、マイコという名前がどうも発音できないようなので、「マイケルジャクソンと同じ名前でいいよ。でも、女だから、ミス・マイコーと呼んで。」と言うと、腹を抱えてみんなが笑った。恥ずかしかったけど、皆が楽しいのなら、それでいい。中学か高校の頃、リアルタイムで公民権運動を経験して、キングが暗殺されて挫折してこの間の自然災害もくぐりぬけた人たちだと思う、そんな彼らアカペラグループと行動を共にさせてもらうことになった。
 「なった」といっても、私が電話番号をきいて、電話して「あ、私だけど、今日、何時からどこのストリートでやる?」と私が積極的に動いて、むりやり入れてもらっただけ!面白かったのは、もし私が道に迷い、辿りつかなければ、ニューオリンズの連中の携帯の連絡網が動きだすことだ。道でうろうろしていたら、「あんたやろ?あんたのこと、○○さんが探しよったよ。そこにおっちょき(なぜか大分弁で翻訳します)。あんたを見つけたら、その場でひきとめちょくように、いわれちょるんよ。そこにおっちょって!」。そんふうに誰かが私を発見してくれて、すぐに別の誰かに連絡する。さらには誰かが優雅な足取りで歩いて迎えにきてくれるのだった。
 しかし私が「知らない人と歩くつもりは毛頭ない」と断わると、その兄ちゃんはひざをカクンと折って笑い「やれやれ」と何やらまた電話をかけ、10分するとアカペラグループ本人全員で迎えに来て合流。それから私を入れた全員で仕事予定のストリートにたどり着くのだった。今思えばいい人たちだった。それにひきかえ、私はなんと、迷惑千万な異邦人なのだろう。

これは、前にも公開した写真ですけど。
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 路上で歌い、小銭を稼いで、夜は高級レストランでどさ回り。だけど、その高級レストランは白人が食べて、黒人が給仕して、黒人が歌を歌って楽しませる、という人種構成だった。人種差別は南部にはありません。公正なる資本主義のもと、各人の努力と所得の結果、結果的に客が白人で、給仕と演奏が黒人です。それだけのことです。そんな目に見えない偽りの了解があった。そして何よりも、機会の平等とか、教育格差とか、そんな問題を問題として考えるのは、この暑さとだるさで持続しない。
 その高級レストランでは私が歌う機会はなかったため(「黒人の」ミュージシャンが歌うことに意味があるのと、彼らのレパートリーに私がついていけなかったのと)、だんだん私の機嫌が悪くなる。そうしたら、空いた時間ごとにメンバーが「ミス・マイコー、こちらの絵画をお見せしよう。ここはクリントン元大統領も来たレストランなんだけど、この絵画は由緒正しい誰々の作、そして…」と、機嫌を取りに来る。
 3時間くらい、テーブルをまわり、チップをかせぎ、奥の部屋でお金の計算をすることにした。その夜は私を入れて4人。私は今夜歌っていないから、要らない。ひーふーみー、ひとり30ドルずつ、残りは活動費にプールする。「今日は稼いだなあ!」と、汗をふき、嬉しそうだった。よかったね。30ドルは3000円にも満たない。一日でそれだけだとしたら。しかも病気の日もあるし、ハリケーンだってまた来るに違い。きっと健康保険も入っていないのだし、だとしたらあとは神頼みか、笑うしかないんじゃないか、と。そこで私は笑うしかない日が来るまえに、まず祈る方を選択してみようと、こんな提案をした。
 「あのね、みなさん。今夜の曲は何だった?黒人霊歌が主だったでしょ?ということは、私たちは、神の名を語ってお金を稼いだというわけ。だとしたら、神様にありがとうの一言くらい言うべきじゃなくって?」
 すると、ひとりが突然目頭を押さえて涙ぐみ、「みんな、ミス・マイコーの言う通りだ。マイコー。きみはさすがだ。よくそのことに気がついてくれた!さ、輪になろう!」そして手をつなぎ、4人で神様に祈ったのだった。リーダーの祈りはどうにいったものだった。私はフランシスコ・ザビエルが宣教しに来たいわばポルトガル経由の大分の日本人教会で育ったが、私以外はアメリカの黒人教会でみんな育ったのだった。みんな、長い距離を移動したり、大変な思いをして移動させられたよね。この400年くらいの世界史が自分達の今夜の祈りにつづいていると思うと、不思議な気持ちになった。それと同時に、生きている限り私たちが主役よ!誰にも文句は言わせない!というライブ感があった。

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 さて。結局、本当にその夜は私の出番がなかったので、やっぱり私はますます機嫌が悪く、だからメンバーがぞろぞろ私の帰路、ホテルまでついてきて、少しでも私の機嫌がなおるよう歩きながら大声で町の知り合いたちとばったり会う度、宣伝をするのだった。「彼女はマイコーっていうんだ!いい歌手で、ダチなんだ、ダチなんだ!」と。私も見知らぬ人に大統領の気分で手を振って(お調子者)、ホテルの玄関までくると楽しくなり、機嫌もすっかりなおってまたねと別れた。
 夜、眠る前に考えた。そんなに長い期間滞在したわけじゃないけれど、彼らだけじゃなく、いろんな人にアメリカで会って、話をして楽しかったり、頭にくることをされたり、単純だからこっちも頭にきてきっちり仕返しをしたり、肩をくんで歌ったり、人づてにあるバーの女主人にきくといいということで、そのバーに行ってあることを教えてもらおうとドアを開けると、昼間から無職の連中がスロットマシーンをうつろな瞳で見つめては酒を飲んでいて、全員がこちらを振り返ったので少し驚いたり(でもきっと、知らない東洋人が来て彼らも驚いたのだろうけどさ)、黒人教会の音楽に感激して最初から最後まで泣きじゃくっていたら(←迷惑なやつ)隣の女性が始終手をつないでくれたり、なんかいろいろあったんだけど、本当にどうして違和感がないのだろう。どうして私は、こんな遠い国にいるのに、知らない人と話が通じるのだろう。通りを歩いていたら、知らない人から「あんたの歌、きいたよー。」と声をかけられるのも嬉しかった。
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 理由を思いつく前に、すぐに眠ってしまうのだった。眠りかけたとき、昼間見かけた、駐車場に棄ててあったペプシコーラの空き缶の裏に、目の周りに赤いふちどりのある黒い鳥が「暑い。」と言ってぼう然とつったっていたことを思い出した。真っ白な夾竹桃の花は、フレンチクオーターで「私たちの美しさは、まだこんなもんじゃないわよ。見てなさいよ。」と、挑むように咲いていた。ミシシッピー川は、人間にばれないように、ときどきこっそり時間を止めたりしていた。殺人も強盗も強姦も、警察による民間人への発砲も、ふつうにある町だけど、嫌いになれなかった。私は、聖と悪と善と俗にまみれて、汚くても、ぐちゃぐちゃな町で、生きるのが好きだ、ぐちゃぐちゃな音楽が好きだ。
 ひとつ気がついたシンプルな真理は、私はアメリカ南部の空気を、もうとっくの昔に知っていたということ。日本の教会で黒人霊歌を歌い始めたのが10代だったが、それから大学で、1840年代〜1850年代生まれの人たちの残した記録を調査して来て10年以上がたつ。つまり、私は南部で出会った人々の本人たちも知らないような、じつにひーひーひーひーおじいさんやおばあさん、4世代から5世代のことをよく知っているのだ。だから、私は昨日今日、ここに来たわけじゃなかった。日本にいたけれど、私の心はとっくの昔からここにあった。そしてきっとこれからも、ここから出て行くつもりはない。

以下、おまけの写真。

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あ、まちがえた。このコ、スイスのうるさいコ。

週末に郊外のプランテーションの見学にバスで行ったとき。奴隷制度の富で建てられたお屋敷の前で、晴れやかな笑顔をうかべる悪魔のようなわたくし。
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案内人が南北戦争当時のお嬢様のコスプレで現れるというので、きっとスカーレットオハラみたいな女が「私たちの過去の栄光をご覧なさい!」と、仁王立ちで解説するんだろうなあ、落ち込むなあ、奴隷制ってと思っていたら、「ドスドスドス、はーい!話を聞きたい人、集まってー!」すごみのある女の子が登場して。
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ミシシッピー川で、不思議な落書きを見つけた。
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1970年代のニューオリンズの写真。これは、たぶん葬式の様子。人が死ぬと、明るい葬式が行われる。撮影は、ニューオリンズで活躍した有名な写真家、Michael P. Smithによるもの。すべてチャラになるくらい、素敵な写真。
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さて、私が出会った若い男のミュージシャンたちの殆どの人が(女性ミュージシャンはあまりいなかった、なぜだろうか?)、貧困となんらかの体調の悪さと(たぶん)、競争どころかスタートラインにも立てなかったり、キャッチフレーズとして「これからますます音楽は金にならない、しかし打ち込む価値はある、だがつらい、暑い、」という感じだった(日本で音楽をやっている連中とたいして変わらない)。

その中でも少し、本当に1人とか2人とかは、心がまだ死んでおらず、奇跡の魅力を振りまいていた。そんな男は、わざわざ話をしに近寄ったりしないのだ。私が何も注文していないのに、テーブルには飲み物が届く。不思議に思って周りを見回すと、ハンサムな、ハーレムルネッサンスの頃(1920年代のニューヨーク)のような仕立ての白いスーツの男がほほづえをつき、秋の空を見るような遠い目をしてこちらを見ていた。私が「ありがとう」と声に出さないず口だけ動かして言ったら、「にやり」と笑った。その後、彼は友人たちと踊り狂っていたが、悪い男なのか、紳士なのか、よくわからなかった。素敵だった。かなり話が脱線してしまった。とにかく、そんなパッションのある人間が1人か2人まだ残っていた。それにしても写真!私も飛びたい!!

過去の海外ライブ、その他

2006 東京ーアムスーバルセロナ
http://minemaiko.sblo.jp/article/5287453.html
http://minemaiko.sblo.jp/article/5287414.html
http://minemaiko.sblo.jp/article/5287451.html

2010 沖縄琉球王国
http://minemaiko.sblo.jp/article/36777415.html
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2009年07月20日

MY NEW ORLEANS

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(Those above photoes were by Dan, Thanks a lot, Dan.)

Hello! Good news for you! I am still alive!

I want to write in Japanese but I can't find the font at all. Sony! Oh, not "Sony" but I mean to say "Sorry".

Well, I am in New Orleans. I had a performance with Jay-Ray & Gee A'Cappella Trio on the street (They appears in some movies, I,ve never seen them though). And I sang the GOSPEL music at the African-American Curch on sunday morning as well.

Mississppi river, a steam boat,a smell of coffee, a sound of jazz and so on...I mean typical New Oleans, those things like that impressed on me the 19th and the first decades of the 20th century. Yes, I am very simple. If not so, America IS simple.On the other hand, the race relations are complicated.

I got some acquaintances, they are all musician. Do you know the band "HOT 8"? I am big fan of them in Japan, so I was really happy to talk with them. We met each other on the street. Consequently, I reckon this city is small.

I have a lot of things to let you know but I have to go to work at Tulane University today. I hope to meet you again if I can be out of gunshot all the time fortunately. WA-HA-HA. See you later, but I don't know when "later" is.

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2009年07月08日

マイコーの死

死んでしまったのは私じゃない、マイケル・ジャクソンだ。当然衝撃も受けた。しかし誰もが心のどこかで「いずれこうなるはずたった」というような、そんな共通の了解がすでにあったように思えるのは、私だけだろうか。

福岡の音楽環境を豊かにするNPO団体「ドットエフ」の有馬さんと水上さんと私などが集まり、計4人でマイケル追悼集会を、カラオケで行った。有馬さんが「マイコー、私たちにこんなに楽しみを分けてくれてありがとうー!!」とマイクを通して彼女らしい素直なコメントをした。そして、ちょっと天をあおいだ(上を向いた)。肉体から解放されたマイケルは、今どんな顔をして、このメッセージに耳を傾けているのだろうかと、私は思った。

マイケル・ジャクソンの整形は嘲りの対象となって久しいが、そこに悲しさがつきまとうのは、彼が「白人化」していったことに、「笑えなさ」があるからだ。マイケル・ジャクソンを白人へと駆り立てる、巨大な権力構造なんちゃらかんちゃら...まあ一言でいったら、「人種差別」だけど、アメリカという国は、あそこまで一人の人間を追いつめる、実に生きにくい国なんだなと、あらためて思い知る。

彼が"Off The Wall(俗語で「異常な」とか「とっぴな」という意味もあったと思う)"、"Thriller(怪奇)"、"BAD(悪党...ちなみに標準語ではただの悪だけど、African Americanの俗語では「すげえヤツ」というニュアンスも)"、"Dangerous(ぶっそうな)"などというタイトルでオリジナルアルバム(ベスト版以外)を発表していったことは、すごく分りやすい。そこには彼自身の、アメリカ社会での立ち位置が、そのまま如実に表れていたのではないだろうか(それは彼の収入とは関係ない、彼のアイデンティティの問題として)。つまり、Off The Wall、Thriller、BADとは、どれも異形の存在だということだ。

彼ほどの人が、それでもずっと異形の存在としてしか存在できなかったというのは、信じがたい。だが、自分がこれほどの成功をおさめスーパースターになったからこそ「なんでそれなのにアメリカ社会で、白人と対等になれないのか?」という苛立ちと絶望は、自分が手にした成功と同じだけ大きかったのだと思う。事実、スターになってもまだ得られない、本質的なアメリカ的な成功=「白人化」への努力は、端から見て(まったく余計なお世話なのだが)、涙ぐましいほどになった。やがて2000年代には、"Invincible"でついに「無敵」になる。彼のアイデンティティは外見の変化によって完成され、もやは非のうちどころない、ということなのだろうか。でも、悲しいことに"invincible"という単語は、文脈によっては逆の意味になる。「絶対に克服できそうにない」と。

不謹慎な物言いかもしれない。だがもし彼が、スティービー・ワンダーのように盲目であれば、彼はあそこまで追いつめられなかった気がする。

トップになれ、競争しろ、自分の財産を守れ、自由とは財産の自己所有にある、成功をおさめろ、そんなアメリカ的な自由主義という「価値」を内面化して、才能と機会を十分に使いトップに立ったのに、まだ上に白人がいる。という感覚(なのかな?)。マイケル以外にも、アメリカという国に追いつめられているのは、あの一見強そうな意志の固まり、マドンナだと思うのだが、彼女はマイケル・ジャクソンとは違う方法で、実は独特の追いつめられ方をしていると思う。その話は別の機会に。

2009年7月4日の朝日の朝刊で、マイケル・ジャクソンへの追悼記事があり、その中でブロードキャスターのピーター・バラカン氏が、「スリラーの呪縛」というタイトルで(彼がつけたタイトルではないかもしれない)語っていらした。切り抜いてとってあるのだけど、彼曰く、白人のヴィデオしか流さなかったMTVと、マイケルがそこに初めて風穴を開けたこと、そしてその「スリラー」を結局彼自身が越えられなかったということだった。

だとしたら、マイケル・ジャクソンは、やはりゾンビに象徴されるように、最後まで異形の存在としてしか、アメリカ社会に君臨できなかったのではないだろうか?

私の言うことはなんの解決も、変化ももたらさない。だけど、ふと思うのだ。いいんじゃない?白人になりたかったら、なっていいんじゃないかと。そんなことをいえば、アメリカの黒人の右派団体が怒るかもしれない。だが、白人になりたい黒人が、本当に白人になっただなんて、そんなめちゃくちゃな人、マイケル・ジャクソン以外にかつていなかったではないか。彼だけだ、本当にやってしまったのは。私は、そこが彼のすごいところだと思う。

そして、死んで残るのは、きらきらした歌とミュージックビデオだけだ。もう、誰も彼を悪く言わない。バラカン氏の言葉を借りれば「とんでもないアイドル性、スター性があった」マイケル・ジャクソンとは、あのような生き方、死に方をした点において、極めてアメリカの黒人だったのだと私は思う。そして、私のベタないい方だけど、あっけなく本当の星になっちゃった。もういいんだから。光を出して、ぶっ飛ばして、アメリカから遠く離れ、百億光年先へ行ってね。心底、そう思う。いろんな死亡説が流れているが、私は個人的に寿命だと思った。

さて、今日の私のコメントは、彼の外見の変化ばかりをおもしろおかしく追ってきたメディアと、同じような次元になったかもしれないけど、一度何か言っておきたかった。そして、マイケルジャクソンがたどった経緯というのは、20世紀初頭や19世紀後半、奴隷解放後のアメリカで生きる黒人男性がたどってきた精神的経緯と実は何も変わっていないって、今思う。それについてきちんと述べるには少し時間が必要そうなのと、私は曲がりなりにも、アメリカ文学の研究者としてやっている側面もあるので、語るなら資料を出しつつ本気で論証したい、だから今日は割愛するよ。

ところでひらがなの「まいこー」は、しばらく海外出張で、行き先はその問題のアメリカ!『週間みねまいこ』の読者の皆さんにとって、アメリカなんて珍しくもなんともないだろうし、私も基本的に宿と大学の往復なのでびっくりするような経験はないと思うけど、休みの日には、知り合いの通っていたある深南部の黒人教会で歌いたいと思っているので、その点でいい報告ができるよう頑張ります。みねまいこーって真面目だなーって、自分で言ってちゃあしょうがないや。

参考:
朝日新聞、2009年7月4日(土)ピーター・バラカン『「スリラー」の呪縛』(福岡版、23面)。
ネルソン・ジョージ『リズム&ブルースの死』(早川書房、1990年)。
Ralph Elison, "Invisible man"., Vintage Books, 1995.
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2009年07月01日

Nothing but death can keep me from it 死ぬまでやるのよ

おはよう。

まずは、お知らせ。世界激場のサイトを、下記の場所へ、引っ越しました。自由参加のJIYU-KENKYUも毎月やっています。次は、7/5(日)です。どなたでも、お気軽にご参加ください。
http://sekaigekijou.jugem.jp/

最近は、何を読んでも、見ても、たいがいのものがつまんない。自分の感性が摩滅したわけじゃなくて、本当につまんないの。もうぜんぶが色あせて見えてしょうがない。仕方がないのよ。世界最高レベルを垣間見ちゃったんだもの。

先日、日本の総理大臣よりも偉い人に頼み事をした。なおかつ、キューバのカストロ級のスケールだよなあ、あの方は。その人を相手にものを申すわけだから、その準備のために、心と頭を全力で使ったんだよね。パソコンの記録をみたら、900分も下書きしてた。それ以前の下調べの時間も入れたら、どれくらい集中したかなあ。これでうまくいかなくても、もういいよ。スケールの大きな失敗は失敗するだけの価値が絶対にあるわ。そう思ってやってた。

そしてこの話はここで保留。私はとても幸せです。次は密度が勝負なの。

さて、この長雨。近道を通ろうとして、閉まっている門をジャンプしてよじ上り、敷地に入った。飛び降りたら、足がじーんとした。しかも、うっかり赤い傘の骨を「くの字」に曲げてしまった。

ヘンな形の傘のまま、侵入した敷地を早歩き。しかし、行く手にはなんと鉄条網が張られていた。マンガじゃないんだからと自分に言ったけど、あらゆる出口に鉄条網が張り巡らされていた。いつからこんなもん張りやがって、いったいだれが張ったんだ(敷地の管理会社でしょう)!子どもの頃に読んだ『トム・ソーヤーの冒険』に出てくる、洞窟に閉じ込められて餓死するジョーの姿を一瞬、重ね合わせた(大袈裟)。

前方に進むのだ。きっと、ここから出られるわ!鉄条網のわずかな隙間を、身をよじらせて外に出ることに決めた。全身をリラックスさせて、少しずつ身をよじらす。頭、首、肩、指先、胴、腰、足、最後に足の先、鉄条網に引っかかりそうになっては、慎重に、息を殺して、なおかつ流れるように。

結果は大成功。さ。次は、荷物。人の気配がしたので、物陰に飛び込んで隠れた。いったい私は、何をやっているんでしょう(笑)。小動物のように出て来て、鉄条網の向こうにおいてたバッグも、傘も、こちらがわに、ひっかけないようにして、そっと隙間をくぐらせる。静かに。静かにね。これも、成功。一カ所だけひじのところ、ジャケットをすこし、破いてしまっていたことに気づいた。大好きなYohjiのジャケットが。

これを読んでいる皆様。愛で突っ走って幸せにおなり。
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2009年06月24日

はちゃめちゃな雨

雨がずっとやまなかった。ただただひどい雨で、ノアの洪水ってこんな感じだったのかって、窓の外を見てた。グランドや芝生に水の層ができて、ぜんぜんもったいぶらないで、気前よく空が雨を放出していた。

傘を持ってきていたけど、傘が役に立ちそうもなく、ひと仕事を終えた後の、某建物の1階でうろうろ心がさまよっていた。そしたら、ばったり、知り合いとはちあわせた。「あれー?なんでー?!」

この9年くらい知り合いだけど、一度もちゃんと話をしたことのなかったひとまわりくらい年上の女性Aさんで、彼女が「帰り、どうする?乗ってく?」と話をふってきたので、二つ返事で彼女の車に便乗させてもらった。「いつも、どうしてるの移動は?」「自転車が多いです。まだ私、Aさんみたいに、バカスカ稼いでないから。わはは。」なんて遠慮のない会話で、雨の中よりも川の中を走るみたいに走った。

雨はもともと二人を親密にしてくれるのか、あまりにひどい雨でだったのでヤケになったのか、さっき駐車場まで歩くのに頭からずぶぬれになってすっかりお互い化粧が落ちたからなのか、9年間の疎遠さが嘘みたいにぶっとんだ。

なんでも話をきくに(私はふだん、聞き役に回ることの方が多いのだ)、アメリカでも日本でもずっと競争してきたし、男性ともずっと競争をしてきたと(彼女は東大出身なくらいなので、おそらく勝利してきたんだろうけど)。自分は運良く続けてこれたけど、通常は女の子たちが結婚したり、妊娠したりすると普通は中断してしまう。仮にもし一度その競争から降りたら、再び最前線に行くことは難しい。それはたくさんケースを見て来て取り返しがつかないことだと思っている。

だから、彼女はどんな環境でも、女の子たちが競争ができるように、競争を降りなくていいように、男性に頼らないで生きられるようにっていう、平塚らいてう先生がやってきたシゴトを、信念を持って続けているようだった。お。かっこいいじゃん!ちなみに私自身の今後の参考に、アメリカで女で一人、子どもを連れて、孤立無援で、どうすればやっていけるのか?っていう貴重な情報も聞くことができてものすごくラッキーだった。

競争からは降りることなく、高速を降りて、適当な場所でおろしてもらった。やっぱりひどい雨で、笑うしかなく、私がちょっとおどけてみせた。そんで「ありがとうございました。じゃあねー。」と別れた。ふと思ったのは、こんな優秀な女性と私が競争したら、果たして勝ち目はあるのか?ってこと。同じ畑で競争することはないけど、でも東大出身の女の子や、ハーバード出と、自分とを比べたら、私の存在理由って、何?って思った。「あ、こりゃだめだ。勝負にならん」

優等生は優秀な教科書を書けるんだと思う。全体に目をくばった、落ち度のない教科書が。で、私のようなチンピラは、そこで勝負したら負けるに決まっているから、独創性みたいなところで勝負するっきゃないんだろうな。ひとつ、可能性があるとしたら、そこの部分でしか、太刀打ちできないね。それで突然だが、それでバンド名を改名することにした。

「みねまいこ&はちゃめちゃクチャ」よろしく。
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2009年06月17日

平和ぼけ

よく、他者への理解、創造力なんて言い方をする。自分とは違う人間の考え方にも、思いめぐらせよ、ってことだ。わりと自戒をもって語られるものの言い方だ。だけど、それには盲点があると思う。他者というのは、ほんとうにありとあらゆる他者であって、それも周囲5mくらいの顔の見える他者だけじゃなくて、自分が思いもよらなかった顔の見えない他者の場合もある。

こんなことがあった。AがBに、私をハメようともくろみを持ちかけた。Bは、そんな卑怯なことはしないと断った。で、Bが私にAのはなしをして、気をつけろと言った。Aとは10年以上会っていない、顔も忘れたようなAだった。だけど、向こうは覚えていて、暇をもてあまし、私に悪事を働こうとした。具体的には良く知らない。暴力か、罠かなあ。A、Bともに男性だ。

私はAとちょっと顔見知りなだけであって、記憶にもなかった。しかし最近はじめて、Aは他の人を、ヤクザを使って人を殺そうとしたり、ホテルに盗聴機をしかけて人をゆすったりしてきたと、Cからきいた。ということは、私はAに、かなりのレベルの悪事を働かれてもおかしくなかったってことだ。Bがやめさせたおかげで、何もなくてすんだ(と、思う)。

怖いのは、こっちは何も知らなかったこと。自分の知らないところで、悪意が働くことのおそろしさのなんたるや。地球上に悪意ってのは、実際に存在するもんだ。だから、私は、他者への理解というのは、生半可なもんじゃなくて、自分への悪意を持つ者がいる、という創造力さえも働かせることだよなって思うわけ。

平和ぼけの人だらけだ。他者への基本的な信頼を持ちながら生きられる人の素直さ(鈍感さ)って、いいよなあって思う。私も最近、つい平和ぼけしてたよな。反省している。

ここぞというところで、ほんのちょっとの隙を誰かにみせたために、大きなチャンスを失ったり、あとほんのわずかな機転がきかなかったために、さらに大きなチャンスを失ったり、そういうことって、よくあるんだよ。愚かで目も当てられないよね。しょうもないことで、命を落とすことも、やっぱり失敗することもおおいにあるわけよ。自分の発言が、その後どんな効果と影響を及ぼすか、考えられない人はだめなんだよ。やっぱ。苦しくても、形になるまで緊張に耐えなきゃなんないわけ。

何を言ってるんだか、さっぱりわからない人も多いだろうけれど、状況判断を見誤らない政治的なセンスというのかな。見知らぬ他者の存在をおもいめぐらすこともできない、平和に生きていること自体に危機感を持てないような、勘の悪い人間には、なりたくないよなってこと。平和を一枚ひっぺがえしたら地獄なんだ、ってのを気をゆるすと忘れそうになる。

他者の言語がわからなかったゆえに命を落としたり、フランス系ドイツ人ともドイツ系フランス人とも、どちらとも言える民間人の家族がたまたまフランス系ドイツ人と名乗ったがゆえに、第二次世界大戦後、無理矢理ある東欧のドイツ人収監キャンプに長い年月収容されて筆舌に尽くしがたい目にあったりとか、そんな話を友人たちから(沖縄の人や、外国籍の友人だけど)きいて、納得する。ある状況で、やっちゃいけないミスをおかすってことがある。とくに、言語ができないってことが、致命的なことになるってことがある。

だから、外国語って、ちやほやされることでは絶対にないし、駅前のような自己実現とか、スキルアップなんかじゃなくて、生命がかかってることだと思う。私のヨーロッパプロモのSnigelはすさまじく英語ができるけど、彼がすごいのは、そこのところがすごくよくわかってる人だからだと思う。

うーん。なんなんだろうね。やっぱり「最悪の事態」が想像できないってのは、自分がなまくらになってたんだろうな。日本だからって、安心しきっていました。世界共通だよ、「政治的な勘」を常時働かせるってのは。それを、思い知らされた、今日このごろです。

追伸。私のヨーロッパプロモのSnigelと、元アメリカの某大手航空会社勤務のご友人様。お二人のご教示のおかげで、先日、自分が納得できる条件と価格の航空券をゲットできました。ありがとう。
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2009年06月11日

もうしわけ

ない!週刊『みねまいこ』毎週水曜日が守れない。なんで毎週水曜日に更新することにしたかっていうと、1992年から韓国の日本大使館の前で、元慰安婦の女性たちが毎週水曜日に、現在もずっと抗議デモをずっとやっているからなのよ。彼女たちは、日本軍の犯罪に遭うまでは、キュートな女の子だったわけ。女の子をそんな目に遭わせるなんて、もうぶち殺していいと思う。こっちは当の日本軍の末裔で、おもいきり加害者の国だけどさ、それでも同じ日に、なにか声を大にして言いたい気持ちになるのよ。女の子たちにとって、なにも終わっちゃいないわけ。

さて、なんでこんなに多忙なのか。それは、アルバムをほぞぼそやっているのと(オオカミ少女だなあ、誰も信じてくれないだろうなあ)、研究をすすめて早いとこ博士論文を提出したいのと、そのために近々アメリカに調査にいかねばならず、膨大な準備に追われているわけなのです。

もちろん勉強をしに行っただけじゃだめだもの。不良ですから。夜はあらゆる深南部のジャズバーとブルースバーで歌おうと、殴り込みをかけようと、音楽の準備もしてるのね。だからなの。そんでもって日曜日には、黒人教会に殴り込みなわけ。ああ、だんだん私はマルコムX化しています。殴り込みだってさ。ははは。

お楽しみに!
posted by minemai at 10:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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