2010年08月18日

ファッションを語る(3)

お盆明けの夜、電話がかかる。なんでも私の男性の友人が、ビートたけしの、とある番組から出演依頼がきたらしい。他人ごとながら、とてもうれしい。

さあ、そこで私の出番だ。いったいその友人がどんな服を着て、テレビでビートたけしと話をするべきか?お節介やきの私があれやこれや、一張羅の服をコーディネートしてあげて、それでも決まらず、結局私は眠りながら、洋服のことだけを真剣に考えていた。

翌朝、番組制作の方から連絡があって、深夜の会議で企画自体が流れたという。それは残念だったし、声にならない声、短いためいきを、その場にいた数人が、誰それとなくついたのだった(でもこういうことは、よくあることだ)。

ところで、私が驚いたのは、今回は自分のことではなかったけども、最優先して「洋服のことだけ」つまり「外見をどのように人に見せたいのか」ということしか、自分が考えていなかったことだ。私の外見重視的態度は、筋金入りなのだろう。

外見で全部決まる。どんな服を選んだのかは、何を考えているのかということのあらわれであって、すごい服を着た者たちは、空間から浮くけども、同時にそこを支配することができる。

でもやられちゃっているんだ。ユニクロと、高級ブランド、この2つの路線に。一方で私が、ニューオリンズで見つけた、すごいと思うファッションはこちら。他人(ネイティブアメリカンの)の民族衣裳を、好き勝手に自分たちでアレンジして着ていた。そこには二つの行程があるので、そこに意表をつかれる。

mardi gras indeans.jpg

でも、この格好では、バスにはなかなか乗りにくい。そこが問題だ。

閑話休題。

年月や気候風土の中で生き残って来たような民族衣裳にしか、空間を支配する力は残されていないのだろうか?そこで、モンゴルの民族衣裳で、本日のエッセイを終わりにする。

福岡にあるモンゴル料理の店のゲルにて。モンゴル系のお店の方にのせられて、彼らの衣裳に着替えてしまった(安易に族衣装を何も考えないで着ることほど、みっともないことはない!と言ったことがあるけど、私ったら幸せそうだ)。

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ファッションを語る(1)
http://minemaiko.sblo.jp/article/35557330.html

ファッションを語る(2)
http://minemaiko.sblo.jp/article/35942537.html
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2010年08月11日

ポルコ

福岡賢正さんという、毎日新聞の名物記者から、連絡をいただきました(彼は、『紅の豚』に出て来る、ポルコにそっくりのセクシーな方。彼から以前一度、インタビューされたときには、「一言でも、間違いを言ってみろ。おまえ。」というような、気迫に満ち満ちており、そのペン先の緊張感は本物だと思った)。

2007年4月から2010年2月まで毎日新聞(九州版かもしれない)に、福岡賢正さんが連載していた「平和をたずねて」というコラムが『小さき者たちの戦争』『小さき者として語る平和』という2冊の本になった。このコラムは、戦争が楽しかった、と答えているおじいさんの話があったりして(本の中に収録しているかどうかはわかりません)、読むのにとても苦しかった。鹿児島の南方新社という小さな出版社から出ているそうです。終戦記念日に、読みたいと思う。

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2010年08月04日

少しのワインと海、そして恋人、それがあればいい

ギリシャで始まった運転手組合(ガソリンを運ぶタンクローリー)がギリシャ政府の営業免許制度改革に反発して起こした無期限デモとストが終わった。1週間弱、全国の交通、運送、社会生活が麻痺していたそうだが、そのニュースを耳にして、数ヶ月前の新聞を思い出した(いくつかの新聞から、面白い記事は毎日スクラップにしている)。これはギリシャの「デモ犬」について触れられた記事だ。デモ犬って何だろう?


2010年5月28日(金)朝日新聞 朝刊14面
ギリシャ危機 スローライフ共感と違和感
 ローマ支局長 南島信也@アテネ
「少しのワインと海、そして恋人、それがあればいい」

 ギリシャで歌い継がれている曲の歌詞だ。多くは求めないけど、楽しい日々を送りたい__そんなギリシャ人の気質がよく表れている。
 世界経済を揺るがしているギリシャ危機の取材のため、今年になってすでに7回アテネを訪れている。そのたびに、ギリシャ流ライフスタイルへの共感と、そして違和感を覚える。
 デモや暴動を取材しながら、必ず犬が参加していることに気づいた。「デモ犬」「暴動犬」と呼ばれている。そのうちの一匹が雑種の「テオロドス」。普段はファストフード店の前などでは一日中ゴロリと横になって、市民や観光客からポテトなどをおすそ分けしてもらうから食うには困らない。
 もともとアテネには野良犬が多かった。五輪前年の2003年に市が2千匹捕獲したが、動物愛護の観点から処分せずに、狂犬病などの注射を打って名札付き首輪をして町に戻した。町ぐるみで犬を飼っていることになる。だがひとたびデモになると、先頭に立って武装警官に激しくほえかかる。
 不謹慎なのは十分承知しているが、テオロドスとギリシャ人の姿がだぶって見えて仕方がない。決してぜいたくではないものの、世界中の人があこがれる「スローライフ」を送ってきた国民は、国家が破綻のふちにありながらなお、「緊縮策を撤回しろ」「欧州連合(EU)、国際通貨基金(IMF)は出て行け」と叫び、ストライキやデモを繰り返す。社会不安の影響で観光客は激減し、国内総生産(GDP)の2倍を支える観光業は大打撃を受けている。(以下、略。)


アテネ市が犬を放し、町ぐるみで犬を飼い、そして有事の際には、その犬を先頭にしたデモが警察(政府)に文字通り「歯向かう」。犬も、有事の際には、誰が命を助けてくれたのかをわかっていて、アテネ市のために、国家と戦うのだろう。

この記者さんの論調は、最後に「強すぎる権利意識と無責任な政治の下、南欧のスローライフが、もはや『夢物語』になりつつある。」と締めくくられており、ギリシャのデモに対して微妙なマイナス感覚で終わる。

この記事の中でほかにあったのは、勤勉なドイツ国民は、ギリシャにいら立ち(目に浮かぶようだ)、EUの経済支援に消極的だったとのこと。一方、イタリアは、困っているギリシャを助けるのは、同じヨーロッパ人として当然だし、ギリシャ人の抵抗(デモ)にも共感する、という意見もあったとのこと。同じEUでも、温度差が大きい。

私が思うに、ギリシャはきっとまだ、「喜劇」と「悲劇」を上演しているのだ。デモ犬も一人の役者なのだ。そう考えたら、この破綻(まだ破綻していないけど)や、無政府状態(に近い状態)は、なるほど納得がいくわけ。

私の仮説が正しければ、このギリシャのこの大掛かりな「演劇」には、救援ではなく、観劇料を払うべきかもしれない。犬までがばうばう出演して、デモ隊も、武装警官も、まるでフィクションのようだ。しかもどこまで無茶をやれば国家が破綻するのか?そんな勇気ある限界に挑戦してくれている(笑)。こんなストーリーが生まれること自体、日本ではありえない(他の国でもあり得ないだろう)。

日本は、そこまで肝が据わっていないけどせめて、虐待や、鬱病や、自殺、内にこもった怒りよりも、ギリシャのような、外に向かって発散するカオスと狂気に向かって行って欲しい(少なくとも私は、内よりも、外に向かう演劇をめざしたい)。

ギリシャは半分か、3分の1(正確な数字ではないけど、驚きの数字だったのはたしかです)が国家公務員だと聞いている。それで、世界中からも批難されていた(なおかつ、もうバレたけど、国家の借金も隠していたわけだ)。イタリアもみんな税金を払わないものだから、国家が破綻する、破綻するといわれて久しいけれど、破綻していない。結局、借金は数字のことなのだ。数字でしかないのだろう。

だから、ワインと海と恋人だけが実態で、その他のことは形態でしかないんだワン。犬が反政府に立つのはあたりまえ、集団としての犬は、市民の立場に立ちますワン。
みねまいこは、AKAIのサンプラーを手に入れて、無敵になったワン。たぶんね。
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2010年07月28日

ガソリン

友人の男性から電話があって、セルフ式のガソリンスタンドで、やり方がよくわからなくって、大量にガソリンをジャブジャブ、スポーツカーの周りにこぼしてしまったとのこと。素知らぬ顔で職場の会議に2本出たけど、服にガソリンがたくさんついてしまい、においも気になったけど、やっぱり素知らぬ顔をした。しかし、会議があまりにしょうもなかったものだから、僕はね、このガソリンを浴びた服に火をつけて燃えてしまおうか?と考えたんだよ、と言った。

しばらくして、同じ人からまた電話があって、今度はどなっていた。「さっき死刑が執行された!法務省も、千葉も、民主党も馬鹿野郎」そう。千葉大臣、彼女は死刑反対論者だったはずなのに、180度違うことがどうしてできたのだろうか?死刑までの経緯が出てきてはいるけども、どれを読んでも、理由にならない。「私の」気分が悪い。

私が死刑を行使したのと同じことだからだ。だから、私が死刑を許可して、執行に加担したのと同じことだ。間接的に、自分が人を殺したのに、どうして幸せになれるだろう?
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2010年07月21日

あばよバミューダ海域

前回書いたものは、書いた後で気分の悪さがつきまとい、それがどうしてなのか?と考えていたら、理由は3つ。

1。どんなときにも、他人のことを悪く言ってはいけない。「他人の悪口を言わせたら天才的」という人間もいて、おもしろおかしく、豊かな表現でそこには笑いがあるのだけど、私はあまり向いていない。私ときたら、育ちも良く素直な性格なので、他人の悪口を言ったことがないのだ。なので、柔道着だとかって悪口を言ったこと、それがね。ちょっと良くなかった。たとえその人が、どんなに柔道着しか似合わないとしても(はい、ストーップ)!

2。人から聞いた話で構成される部分が多いこと。実はこの近所の療養所、そこに集まる様々な地域の患者さんたちからの話、さらにその療養所の従事者を経て、私に届いた話だったので、要するに魔のトライアングルの三つ巴的な対立は、究極的にはただの「うわさ話」に還元されてしまう代物だというところ。うわさ話では、だめでしょう。

イスラム教の礼拝に参加して、隣でキムチをわんさと買って帰って家でいただいて、じぶんちのペットをそこで火葬にして(うちの猫は私の放任主義の結果、野生化した。こないだ道でばったり会ったら、私をにらみつけて、その後、林の中に走って消えた)、さらには地域住民の何パーセントかに話を聞く。そこまでしないとダメだと思う。とはいえ自分でリサーチを行うには忙しい身なので、よってそもそもこのような不確かな題材を扱うべきではなかったのだ。

3。自分自身がどこかで嘘だと思っていることを書いてしまったこと。魔のバミューダ海域から、この国の未来が始まると書いたけど(変なにほんご)、それは嘘だと本当は思っていること。まず、そもそも国の未来なんてどうでもいいし、自分の未来の方がはるかに大事。

つぎに、どういう場所から出てくるものであれ、それがおもしろければ「なんだっていい」のである。つまり、この魔のトライアングルからおもしろいものが出てこようが、中央の政治からおもしろいものが出てこようが、おもしろければなんだっていいのだ。逆に結果としてつまらなければ、意味がないんだ。苦労したら苦労しただけ、もしくは複雑怪奇な場所だからこそよいものが出てくるかといえば、そこには因果関係はないと思う。その人の苦労や出自は、その人が作る作品や出てきた思想に、関係ない。

もうちょっといえば、雑誌や新聞のインタビューで、本人の履歴を少し掲載することがあるけども、女性の場合に「子供2人」とかって書いてある。ひどいときには「○○氏との間に男児1人、女児2人」なんて書いてある。子供も、履歴のうちなんだ!とつい笑ってしまう。昔の人たちみたい。名前が「○○の母」みたい。ほかには履歴に「パリ在住」なんて書いてある。住んでいる場所がアイデンティティーの一部だとしたら、その人自身はどういうからっぽな存在なんだろう?と不思議に思う。評価されるのは、その人個人だけだと思う。

よって、バミューダ海域からおもしろいものが出てこようがどうしようが、どうだっていいんだ。「from どこどこ」ってのは、本質に値しない。もちろんどの民族だろうが、何教だろうが、どうでもいいんだ。たとえばメキシコ人で、沖縄三線の名手だったとしてもいいわけ。キリスト教徒で、モスクの天才建築家でもいいわけ。実際はそう簡単ではないだろうけど。

定住には、未来がないって思ってる。私にとっては、むしろ「移動と交通」の方が大事だと思っている。つまり、自分自身が「移動」して、別の何かと「出会う(交通)」ってこと。そういう意味で、魔のトライアングルそれ自体は、魅力のない場所だ。場所そのものは移動できないのだから。

結論として、前回は「この場所はちょっと変わってるね」としか言っていない内容だった。それ以外は、中身がない。したがって、みねまいこをちょっと、巣の中に入れて、しばらく反省させたいと思います。

架空の校長先生からの御達(おたっし)で、1週間の謹慎処分につき、次の更新は8月4日(水)です。
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2010年07月14日

福岡、魔のバミューダ海域、魔のトライアングル

沖縄県の仲井眞県知事から、先日行われた沖縄国際アジア音楽祭の出演のお礼状をいただいた。こういった、最後まで気合いの入った音楽祭というのはどこにもないと思う。また、スタッフの方からの好意的なコメントも届き、来年の日程が出たので、来年もよろしくお願いします!と書かれてあった。もちろんお願いされます!!ふふふふふ。封筒はすでにMUSIX2011に更新されて印刷されてある。2011年3月18日〜20日までの3日間、開催されるとのこと。わかりました。来年のこの日は、予定を開けておきます。そして皆さんも、ぜひ来年一緒に沖縄へ!ちなみに、すでに終了した今年の国際通りでの音源は、ひょっとしたらホームページでUPするかもしれません。

さて。本日はフィールドワークです。

*****

福岡市に、イスラム教徒にとり念願の九州で初めてのモスクが建った。しかしモスクの向かいの、ペット葬儀場が、何枚か張り紙をした。「無断駐車お断り」。
<写真の左がモスク、張り紙は右手のコンクリートの壁です>
Field Work.jpgNO Parking.jpg

一方、このような張り紙を出した当のペット葬儀場は、町の中にあるわけで、動物の火葬とはいえここで行われるのはちょっとと、周辺住民から煙たがられているという(火葬の煙のことではありません、ごめんなさい、ちょっと笑えない冗談でした)。
<写真右手の奥です>
Between.jpg

さらには、モスクの左隣には、謎のキムチ屋さんがある。といっても普通の玄関も外観も普通の民家だ(ん?日本語がへんかな)。そして、車の様子からおそらくヤクザのお兄さんたちではないか?と思われる人たちが立ち寄っては、キムチを買っていく姿がよく目撃される。3時からしか開けますって手書きで玄関に書いてあった。おそらく2時59分まで、仕込みなんだなあ。そして、この謎のキムチ屋さんには、ときどきこんな手書きの看板が出る。「クロネコあります」。子猫が生まれたのかな?

<個人の家なのでキムチ屋さんの写真なし。モスクの写真だけ>
Islam and.....jpg

というわけで、モスクと、ペット葬儀場と、謎のキムチ屋さんがトライアングルをなしているこの一角。私はここのエリアを「福岡、魔のトライアングル、もしくは魔のバミューダ海域」と呼ぶことにした。

モスク、ペット葬儀場、キムチとクロネコを売っている謎の店、すべての存在が際立っていて、それぞれが何かを逸脱している気がする。同時に、3者は雄弁だ。表面上は分かりやすい小競り合いやぶつかり合いをするんではなく、単に「車を止めるな」とか、「ペット火葬」とか、「キムチあります」「クロネコあります」とか、「(アラビア語なので分からないけど)アラビア語で何か書いてある看板」、そんな単純な看板や張り紙のやりとりだけ。それだけで、非常に雄弁に自分を主張している。

私と一緒に福岡でイベントをやっている世界激場の実行委員の聡くんは、その場所を知っていて、いわば、モスクは宗教問題、ペット葬儀場は広い意味での環境問題、謎のキムチ屋さんとヤクザらしきお客は、ひょっとしたら在日の人たちで、それは民族問題といえるかもしれない、と言っていた。彼はこう続けた。残念なのは振り返ったとき、どうして僕らは、在日の人たちと、お互いぶつぶつ言いながら、それでも一緒に生きて行けなかったんだろうか?と。

思い出したのは、高橋竹山さんだ。彼は言わずとしれた津軽三味線の名手だけど、彼は角付けで、日々のご飯を三味線ひとつで稼いでいた。戦時中は、誰もみんな貧しくて、演奏をしても食えない。空腹でもうだめだと思ったときに、強制労働をさせられていた、朝鮮半島から連れてこられた人々が、たき火をして、歌って踊って、わずかな食事をしていたんだと。自分たちこそが、大変な思いをさせられていたのに、竹山さんを輪に呼んでくれて、握り飯を握らせてくれたんだと。それで、竹山さんは、それから演奏の度に、アリラン協奏曲として、津軽三味線でアレンジをして必ず演奏するようになったらしい。そのライブ演奏のレコードを私は持っているけども、これはすごい1曲だ。

しかも、そのときの経験と関係があったのかどうかは知らない。でも亡くなる直前まで、竹山さんにはライブの直前に、必ずおにぎりを食べる習慣があったはずだ。ともかくこの話は私にとって、強烈な印象を残している。それでイスパーニャという曲を作った。そしていつか、津軽三味線のアレンジで歌いたいと思っていた。歌詞は、別の場所から飛んできたけど。

ん?何の話だったっけ?「福岡、魔のバミューダ海域」の話だ。この魔のバミューダ海域、魔のトライアングルは、偶然生まれた一角だけども、この国の未来は、質問されたこととまったく関係のないことを目尻を下げながらすらすらと答えることができるので、日本の政治家としての資質を十分に備えていると思われる柔道着の女からじゃなく、この場所から始まるんじゃないかって思う。出会った今日から親友になろうといわんばかりのハイな国際交流で、実態は相手が一方的に英語をしゃべって、こっちがそれを辛抱強くリスニングしているだなんて関係は3日しか持たない。互いに相手のことをいぶかしげに見ながら、よくわからない言葉を一斉に話し、それでもとりあえずそばで一緒に生きてるという場所があれば、それが私たちの未来なんだぜい。
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2010年07月07日

原稿消失

PHOTO GALLERYが更新されました。

今回は、さっきうっかり原稿が消えてしまい、今は書き直す気がどうしても起きません。ウンベルト・エーコのサッカー論と、日の丸の赤への禁忌が反転した色としてのユニフォームの青と、朝日新聞とファシズムと、ボローニャ大学と友人のsaxphone player、最後にイタリア大使館から私に着た手紙を踏まえて「ワールドカップをめぐる言説」を考察しようとしたんだけど(あらすじがぐちゃぐちゃですが、ちゃんと筋は通っていたのです)。

ごめんなさい。以後、気をつけます。ちゃお。

次回の更新は、7/13(水)です。


P.S.ユニカイエさん、更新をありがとうございました。
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2010年06月30日

ファーストフードの起源

FH000014.jpg

みねまい in フランスです。

冗談です。徹夜明けでへろへろになって飛び込んだ、福岡の喫茶店です(ノーメイクだけど)。

さて、今日はそば屋で、お昼を食べていた。混んでいたので、上品な老婦人と、相席となる。会釈。ふと、思ったのだけども、この店内を全員、タイムスリップさせたら、そのまま江戸の風景になるんじゃないか?と。

出てくるまでに、スピードがある。食べるのも早くすむ。勘定して、外に出て行くのも早い。寿司がファーストフードだというように、そばも江戸のファーストフードだったんだろう。寿司は高級化路線をたどるか、回転寿司のようにアトラクションと化して、ファーストフードではなくなってしまったけども、そばは昔の面影がある気がする。

ファーストフードの定義を、辞書で調べてみると、待たずに食べられる簡単な食品のこと。持ち帰りもできる。らしい。

ファーストフードは、強い町人文化があって、はじめて栄えるのだろう。2時間かけて食べるようなフレンチやその他もろもろは、時間があって働かなくていい、文字通りの意味でも、「〜みたいな人達」という意味でも、いわゆる貴族の食事だろう。

町人は、忙しいのだ。商売やら、ゴシップ話やら、旅行やら(彼らは徒歩ね)、火事や喧嘩やらで。それが、活気だ。フレンチのレストランに、活気があるか?品と、格式はあっても、活気はない気がする(逆に厨房はありそう)。だから、ファーストフードが栄えることは、町や人々、時代と経済が栄えるってことなんだと思う。はたして、西欧にファーストフードは、昔、あったのだろうか?

私はマクドナルドはあまり行ったことがなくって、去年の夏に友人の男の子とフランスからの留学生のパリジャンじゃないけど、パリ近郊ジャンの3人で朝まで遊んでて、明け方朝ご飯を食べようということになり、そのとき初めて行った。「美味しくないだろうから、絶対に嫌だ。せめてファミレスで和食を」と言い張ったが、負けてしまい、騙されたと思って入ったところ、びっくりするくらいに美味しくて「こんなに美味しいもの、食べたことがない!私が間違っていたわ!」と2人に謝罪した記憶がある。

そんなマクドナルドは現代発祥だ。マクドナルドは、アメリカ型グローバリズムや、経済合理性の象徴として、近年憎まれることが多いか、逆にフランチャイズの手法の成功物語として見られることもある。しかし、これじゃあ、十分に説明したことにはならない。

どうして、私達の生活に、ここまで入り込んだのだろう?資本主義が、長いこと商品化できなかったものは、家族と学校だった。高度資本主義の過剰商品化の中で、本来、家庭でまかなうべき「食事」を、マクドナルドが「外食化させる」ことに成功した、ということ?でも、ただそれだけだろうか?マクドナルドを考えることは、私達の本質的な問いだと思うんだ。だけど、本日のまいこには、答えがよくわからない。

はたして中世の時代から、ファーストフードって、ヨーロッパにあったのだろうか?英国のフィッシュ&チップスはどうなのだろうか?あれは、おやつなの?おやつの概念なのだろうか?じゃあ、世界的に、ファストフードが中世から存在していたのは、日本(江戸)だけなんだろうか?

スローフード、スローセックス、スローなんとか云々かんぬんってもんが、最近、流行っているけども、もたもた生きて、なにが楽しいんだろう(読者の方が引いている気がしますが、続けます)?

うーん。ファーストフードっぽいのを見たのは、フィッシュ&チップスの他には、スペインのタパス(小皿料理)かなあ。ちょっと生ハムとか、ちょっとガスパッチョ(トマト冷製スープ)とかを注文して、ビールのつまみにして、みんな立って、食べていた。これはしかし、アルコールのつまみみたいなものだろうから、ファーストフードとは言わないかもしれない。

ファーストフードは、考えたら深い問題かもしれない。歴史のあるファーストフードは、日本以外に果たしてあったのだろうか?で、私は、ファーストフードが必然的に生まれてくるような、社会と人々の「活気!」が大好きなんだけどナ。
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2010年06月23日

いかれ、全国のお母さん

みなさま、こんにちは。頭が悪いわけではないけれど、頭のネジが1本とれていて、しかもそれが頭の一番大事な部分のネジだったんだよね。そんな、みねまいこです。

サッカーのワールドカップが、世界を動かしている今日この頃ですが、今日はひとつ、笑っちゃう記事があったので、それについて書きます。

6/20(日)朝刊、朝日新聞の38面(オランダ戦に1-0で負けた翌朝)。


「左手わずかに及ばず GK川島」
 0-1。芝の上で大の字になった。地面をたたいて悔しさを表した。猛攻は、その想像を超えていただろうか。
 新しい「守護神」は、常に困難なレベルに自らを追い込んできた。
 埼玉県与野市(現さいたま市中央区)出身。「相手が強いほど燃えるタイプ」と……(中略)
 夕暮れ、無人のグラウンドに向かって大声で指示を出し、想像上のボールに向かって飛び続ける―。(中略)
 県立浦和東高校サッカー部の野崎正治監督(50)は、そんな姿をよく覚えている。「世界レベル」と戦うためのイメージトレーニングだった。
 「学校の正門は川島が開け、川島が閉める」と校内で言われるほどの練習の虫。毎朝5時半に起き、授業が始まるまで自主的に練習。夕方の全体練習の後も、自主練習に打ち込んだ。
 自己管理も徹底していた。
 炭酸飲料には口をつけない。ご飯は必ず5杯以上食べるが、揚げ物はほとんど口にしない。弁当に冷凍食品が入っていると、怒って母親に電話をかけることもあった。10代からユース各世代の日本代表に選ばれた。

インターネット版はこちら→http://www.asahi.com/sports/update/0620/TKY201006200003.html


文脈からして、高校の先生の談話を、記者がまとめていると思われる。紙面の結構大きなスペースをこの記事が占めていた。社会面がわずかなスペースで内容の濃い記事を書くのに対して、朝日のスポーツ面はバカなんじゃないかと思う。書名記事で、3人の名があった。はっきり申し上げて、こういう記事を3人掛かりで書いた時点で、記者生命は終わりだと思う。じゃあ、この記事の何が悪いのか?

練習熱心なのは美談。そこは本人の努力なのですばらしい。誰もいないグランドに向かって「大声で指示を出し、想像上のボールに向かって飛び続ける―」それはちょっとヤバいんじゃないか(笑)?という気がしないでもないけど、とりあえずここも美談としよう。

しかし、ここ。「自己管理も徹底していた……弁当に冷凍食品が入っていると、怒って母親に電話をかけることもあった」。

お母さんにお弁当をつくってもらっておいて、それは自己管理とは言えませんね。記者は日本語を間違えていますね。その他。揚げ物の何が悪いの?かわりに、ご飯を必ず5杯以上食べることの、一体どこが自己管理なの?「冷凍食品が入っていると、怒って母親に電話」と言ったって、いまどき、冷凍食品じゃないものは厳密に言えばあまりないヨ(卵くらいか?)。肉だって魚だって、いったん冷凍して、その後で解凍してスーパーに売っている。

総合して、意味がわかりません(笑)。

この記事は後で問題になるんじゃないかと思う。2つの意味で。1つは、自己管理の言葉の意味が間違っていること。2つめは、「常に困難なレベルに自らを追い込んできた……」その困難なレベルに対し、記事の内容が空虚であること。

この選手は、高校時代に練習熱心だったかもしれないけど、この選手のやっていたこと(揚げ物禁止、ご飯5杯、など)は、科学的(栄養学やスポーツ医学)に有効な方法なのか?ひょっとしたら、世界レベルと戦う為のイメージトレーニングだって、誰もいないグラウンドに向かって指示を出したことも、飛んで来ないボールに向かって飛び続けたことも、本当は「意味がなかった」ことなのではないのか(と、私は個人的に思う)?

こんなふうに言葉遣いが間違っていて、なおかつ根拠の薄い、空虚な記事を、大きなスペースで読ませるなんて、滅多にないほどに、ひどいことだ。

では、果たして私がこの記事をまとめるとしたら?「練習熱心、ご飯が大好きな高校生。おかずが気に入らないと、お母さんに電話して文句を言うこともある、わがままな子だったけど、今では立派な日本代表に。お弁当のこと、お母さんに土下座して、謝っておいてください。(みねまいこ)」と、書くと思うよ。この話を、無理に美談にしてはいけない。

自立して、自分でやるのが、自己管理。ついでに申し上げれば、この記事は、子供のお弁当を毎日作ったことのある女性にとっては、ここ最近の朝日新聞で、ワーストワンの記事。いかれ、全国のお母さん。
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2010年06月16日

アウトレイジ

北野武の新作映画『アウトレイジ』を、観に行った。すごく面白いわけではなかったが、彼の最近の映画では、いちばん良かったと思った。ヤクザ映画で、ひたすら、人が虫のように死んで行く。教訓もなにもない。

作品名を具体的に挙げるのは割愛するが、一般的に外国のマフィア映画でも、日本のヤクザ映画でも、そういった映画の中では、主役が悪いなりに、どこかで正義が描かれるものだ。しかし、この映画には正義というものがまったくない。だから、映画からなにか真理を得るとか、学ぶものも何もない。繰り返すけど、虫みたいに、人が死んで行く。

人があれやこれや、バラエティたくさんの手法で痛めつけられて、「あ」と思ったら、死んでいるので、仁義を見たいヤクザ映画が好きな人からは、きっと好かれない映画だろう。そして、アートの香りを求める映画ファンからも、好かれないだろう。「あ、死んじゃった」という、乾いた感じがあるだけだ。感動もない。悲しみもない。だから、おそらくこの作品は、感想が出にくいだろう。

私が思うには、死体が、一番よく撮れていた。血だらけの死体を、じいっと見つめるカメラの視線。不思議なことに、死体が、いとおしく思えてくるようになる。人間の胸の、孔のあいた銃弾の埋まった場所や、投げ出された、白っぽい裸の湿った肉体の重み。さっきまで無邪気に(ヤクザなんだけどね)命があった、無防備な生命の「余韻」。それが、いちばんよく描けていたと思う。

そういう意味で、北野武という監督は、これだけ凄惨な映画を描いたところで、彼の本質にあるものは、「純粋さ」なのではないだろうか。

ところで、映画館の中は、白い帽子を深くかぶったお爺さんたちが多かった。女の人もいたけど、謎のお爺さんたちが集団でいた。しかも座席後方に、まとまって座っていた。引退したヤクザたちなのだろうか?それと女性が、映画の途中で何かを落としてしまったらしく、暗がりの中を四つん這いで、しばらくはい回っていた。それも気になった。スクリーンでは、たけしたちの殺し合い、劇場では四つん這いの女と、お爺さんたちの集団。どっちも怖くって、それが私はおかしくってしょうがなかった。
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