2010年07月21日

あばよバミューダ海域

前回書いたものは、書いた後で気分の悪さがつきまとい、それがどうしてなのか?と考えていたら、理由は3つ。

1。どんなときにも、他人のことを悪く言ってはいけない。「他人の悪口を言わせたら天才的」という人間もいて、おもしろおかしく、豊かな表現でそこには笑いがあるのだけど、私はあまり向いていない。私ときたら、育ちも良く素直な性格なので、他人の悪口を言ったことがないのだ。なので、柔道着だとかって悪口を言ったこと、それがね。ちょっと良くなかった。たとえその人が、どんなに柔道着しか似合わないとしても(はい、ストーップ)!

2。人から聞いた話で構成される部分が多いこと。実はこの近所の療養所、そこに集まる様々な地域の患者さんたちからの話、さらにその療養所の従事者を経て、私に届いた話だったので、要するに魔のトライアングルの三つ巴的な対立は、究極的にはただの「うわさ話」に還元されてしまう代物だというところ。うわさ話では、だめでしょう。

イスラム教の礼拝に参加して、隣でキムチをわんさと買って帰って家でいただいて、じぶんちのペットをそこで火葬にして(うちの猫は私の放任主義の結果、野生化した。こないだ道でばったり会ったら、私をにらみつけて、その後、林の中に走って消えた)、さらには地域住民の何パーセントかに話を聞く。そこまでしないとダメだと思う。とはいえ自分でリサーチを行うには忙しい身なので、よってそもそもこのような不確かな題材を扱うべきではなかったのだ。

3。自分自身がどこかで嘘だと思っていることを書いてしまったこと。魔のバミューダ海域から、この国の未来が始まると書いたけど(変なにほんご)、それは嘘だと本当は思っていること。まず、そもそも国の未来なんてどうでもいいし、自分の未来の方がはるかに大事。

つぎに、どういう場所から出てくるものであれ、それがおもしろければ「なんだっていい」のである。つまり、この魔のトライアングルからおもしろいものが出てこようが、中央の政治からおもしろいものが出てこようが、おもしろければなんだっていいのだ。逆に結果としてつまらなければ、意味がないんだ。苦労したら苦労しただけ、もしくは複雑怪奇な場所だからこそよいものが出てくるかといえば、そこには因果関係はないと思う。その人の苦労や出自は、その人が作る作品や出てきた思想に、関係ない。

もうちょっといえば、雑誌や新聞のインタビューで、本人の履歴を少し掲載することがあるけども、女性の場合に「子供2人」とかって書いてある。ひどいときには「○○氏との間に男児1人、女児2人」なんて書いてある。子供も、履歴のうちなんだ!とつい笑ってしまう。昔の人たちみたい。名前が「○○の母」みたい。ほかには履歴に「パリ在住」なんて書いてある。住んでいる場所がアイデンティティーの一部だとしたら、その人自身はどういうからっぽな存在なんだろう?と不思議に思う。評価されるのは、その人個人だけだと思う。

よって、バミューダ海域からおもしろいものが出てこようがどうしようが、どうだっていいんだ。「from どこどこ」ってのは、本質に値しない。もちろんどの民族だろうが、何教だろうが、どうでもいいんだ。たとえばメキシコ人で、沖縄三線の名手だったとしてもいいわけ。キリスト教徒で、モスクの天才建築家でもいいわけ。実際はそう簡単ではないだろうけど。

定住には、未来がないって思ってる。私にとっては、むしろ「移動と交通」の方が大事だと思っている。つまり、自分自身が「移動」して、別の何かと「出会う(交通)」ってこと。そういう意味で、魔のトライアングルそれ自体は、魅力のない場所だ。場所そのものは移動できないのだから。

結論として、前回は「この場所はちょっと変わってるね」としか言っていない内容だった。それ以外は、中身がない。したがって、みねまいこをちょっと、巣の中に入れて、しばらく反省させたいと思います。

架空の校長先生からの御達(おたっし)で、1週間の謹慎処分につき、次の更新は8月4日(水)です。
posted by minemai at 00:00| Comment(0) | 日記
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