2017年08月31日

ある弱さについて

スウェーデンの作家スティーグ・ラーソンによる『ミレニアム』シリーズ(3巻までは本人による作品)を読んで、大きな衝撃を受けた。こんな傑作をどうして、今まで知らなかったのだろう。これを読んだ後、女性をとりまく問題の多くが、絡まった糸がするするとほどけるように、これ以上ないクリアな解を得るのだった。保育園落ちた日本死ねも(母親と赤ちゃんたちには、飢えずに生きる権利がある)、事件化されることは絶対にないごく微細な身近なニュース、しかしよく考えてみると極めて不愉快な構図も、根底には『ミレニアム』で描かれたテーマと同じものが薄気味悪く横たわっているように思えた。

関東で仕事を始めて以来、あまり選択の余地なく電車が自分の足となった。ある朝、いつものラッシュの時間帯に、普段とは違う車両に乗った。すると、私の髪が後ろの中年男性の顔に触れたか何かで、その男性が「ふさけんな」と言って怒っていた。私は怖くなって、すぐに謝ったが、私の顔に浮かんだ反射的な恐怖の色を見逃さなかったのだろう。攻撃は、弱い者に向かう。その男は、弱さを見せた私をさらに罵倒し、謝罪が足りないという主旨の言葉で、ののしるのだった。その一瞬、私の何かに火がついた。地声で最大限に大きな声で、私はその男に怒鳴り返した。これは、かなり勇気が要ることだった。が、今ここで沈黙したら、沈黙することに馴れてしまう。それだけは、絶対に嫌だった。

女に抵抗されるとは、思ってもみなかったのだろう。困惑すると、その男は、思い切り私の下腹を殴りだした。そのパンチはかなりきいた。が、さらにデシベルを上げて、声で抵抗する以外にできない。殴り返せない。私が弱いからか。もしくは、頭にきても手を出したら終わり、と、昔、小学校で習った言葉が頭をよぎったからか。もしくは、右の頬を撃たれたら左も出せという、ミッション系の幼稚園の教えが頭をよぎったからか。おのれ、初等教育の恐ろしさよ。この後に及んでも優等生ぶった私は、暴力という手段を選べないまま、その握りこぶしは、ぶらさがっているだけの役立たずだ。やはり、攻撃しかえすべきか。ゆっくりスローモーションで、同じ車両のあらゆる人々がこちらを向くのが見える。面白いのは、周囲の誰も助けてくれないこと。

殴り返すかどうか逡巡しながら、結局「次の駅で鉄道警察呼ぶからな、このやろー」とだけ叫び、その後は情けなくしゃがみ込む私。次の駅にやっと到着すると、その中年男性は電車を飛び出して、走って逃げて行った。となると、次に私の怒りは、行き場を失い。「いてー、くそー」と誰に向けてでもない言葉を床にむかって吐き捨てながら、せめて体を休めるために壁際に移ろうとする。すると、これだけのラッシュなのに、なぜか人が綺麗に割れて、満員電車の中心に、私のための道ができるのだ。少しモーセになったような気分で私はよたよた歩き、車両の隅までくると、サラリーマンが見て見ぬ振りをしたことの贖罪の気持なのか、座席を譲ってくれた。

そんなことがあってから、いろいろ考えていた。まず、私は強くならなければならない。体力をつけるために、シンクロナイズド・スイミングと護身術を始めた。前者は、過酷なスポーツだ。常に「息苦しさ」との闘いである。それはまた、生きる上での「女たちの息苦しさ」という意味で、象徴的な意味をもっているともいえる。近年は男性の競技人口が増えつつあるけども。後者は、文字どおり、自分の身を少しの腕力でも守れるように、効率の良い防御的な攻撃を学ぶために始めた次第。つぎに、若い人が自由に生きる手伝いをしなければならない。自分がこれまで、誰かにされて嫌だったことから、彼らを守らなければならない。自由というのは、学問や研究の自由でもあり、言論の自由でもあり、表現の自由でもある。

そうなれば、自由のテーマソングが必要だわよね。

2017年9月15日(金)、東京麹町の文藝春秋ビル(新館)で行われる、イベントの告知です。お席はまだあると思いますが、お早めにご予約ください。
日本文藝家協会トークイベント
お待ちしています!
posted by minemai at 17:35| 日記
Copyright (C) 2003-2007 みねまいこ. All Rights Reserved.