2010年04月28日

本がでました

本が出ました(アメリカ文学の専門書です)。私は21人いる執筆者のうちの1人です。
http://www.bookmailclub.com/bmc/reader/search/?.command=detail&book_id=11024&prev=released
posted by minemai at 22:43| Comment(0) | 日記

2010年04月21日

中世のFocus

今日は、いつも以上に、おおざっぱな話をしてみたい。ヒエロニムス・ボスの絵がある。去年マドリードで見た絵だ。タイトルは「快楽の園」だったと思う。誰もが感銘を受けるように、私にとってもまた、強い印象を受けた。
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一方で先日、北九州美術館の売店でこんなものを見つけて、つい買ってしまった。約5000円なり。昼ご飯はレストランではなく、ビスケットになってしまった。むむう。
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ボスの上の絵の一部(さあ、どこにあるかな?)をキャラ化し拡大して、オランダの会社がハンドメイドでフィギュアにしたものだ。フィギュアに興味はないのだけど「鳥が青い宇宙服を着て、頭に鍋か、やかんをかぶり、人間を食べている途中」そんなレアなフィギュアには興味があったのだった。

ボスは、ご存知のように1450頃〜1516のオランダ、フランドル派の画家。彼についての研究書は世界に山のようにあるだろう、にもかかわらず、敢えて私が確認したいのは、中世の視点についてだ。絵の中のすべてに焦点が当たっている。それはどうしてなのだろうか?という疑問だ。人を食う鳥も、卵人間も、細かいひとつひとつに、ピントが合っている気がする。

一方で近代絵画は、この北九州美術館で見つけたフィギュアのようだ。全体のうちのどこかひとつが拡大されている。そんな視点だ。絵のタイトルの付け方にも、きっとそんなピンポイントの視点が如実に出ている。また「主題+背景」そんなふうにシンプルな構図のような気がする。全体を見るのではなく、ひとつだけに注目して、掘り下げていくというような。ときに内面の奥深くにまで。近代以降、主体や個人の内面が生まれたと、いろんな人がいろんなところで言っているのを、繰り返して言ってもいいのだけど…。

絵のことは(も)よくわからない。でも、この視点の違いを目の当たりにして、近代以降、人間の視覚に、何度強調しても強調しすぎることはないくらい、大きな変化が起きたことだけはわかる。

内面といえば、中世の人たちの内面は、まるでわからない。この絵からは、感情がよく見えない。中世じゃないけど、もっとはるか昔の聖書を読んでも同じ印象をうける。表面的なこと、宮殿の幅が何キュピトあったとか、町に何人の敵がやってきて何人殺したとか、全部燃やし尽くすのに何日かかったとか、何代目の王が何日目にどうしたとか。決して「王は〜と思った」「王は〜と感じた」なんていう表現は出てこない。むしろ数などの表面的なディーテールにこだわる(そして私はそんな乾いた感じが好きだ)。そして、とんでもない数の人間があまり感情を見せないで出てくる。

やがて、放っておいても時代が変わるだろう。近代が終わった終わったと言われてずいぶん経つけど、やっぱりまだ近代で、それでも本当に近代が去ったあと、昔は物を知らずバカだったよね。と、思われる日も来るにちがいない。でも、そんな先のことなんて知ったこっちゃないし、今の時代が嫌いじゃない。

そんなふうにボスの中世と、知ったこっちゃない未来を思ったときに、近代の最大の特色というのは、自画像じゃないだろうか、と思うに至った。歴史上、自画像をたくさん描いた時代は、近代以外にない気がする。よくわからないけれど、古い昔の自画像というものを見たことがない。デューラーくらいだ。

ああ、だから中世の歴史家の阿部謹也はデューラーの自画像を特別に論じていたのかもしれない。晩年は私が粗相をやらかして(お漏らししたわけではない)、怒られて、そのまま会ってもらえなくなってしまったけども、出会って最初の頃の牧歌的な日々に「鏡をみなさい」とよく言われた。鏡で自分を常に見るように、と。意味がわからなかったし、ある種の自己愛のようなものからは遠ざかりたかったので、私はまったく言うことをきかなかったけども、こうやって考えてみると、自画像のことを言っていたのだ。

近代の最後の腐敗した時代に生きている以上、腐敗の中から立ち上がる近代人として、私も近代のテーマを最後まで意識的にやらなきゃダメなんだと今頃になって気がつく。巨大な自画像を描くような喜び。本当は自画像の季節は過ぎ去り、ボスの、見えるものすべてに焦点が合う視点の方が、リアリティと魅力を覚えるとしてもね。

今日は何が言いたいんだか、わかりにくいような、思わせぶりなことを書いてしまった。つまり、近代の自画像のような自己を見つめる焦点と、ボスのような全体への焦点が、ある日同時に、両立すればいいわけ。
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2010年04月14日

宇宙飛行士、学級委員長説

晩に電話が鳴って、友人の声。ハイテンションで「サプラーイズ!」と叫んでいた。何がサプライズなのだろうと不審に思い電話をきる。夜中、とり忘れた夕刊を玄関にとりに行くと、郵便受けに、花がブッ刺してあった。このような日本語はあまり品が良くないけど、本当にブッ刺してあって、手紙には「mixiのコミュで4/9のライブ情報をたよりに彼氏と会場に行ったら、みねまいこはいない、なんと1年前のライブの情報だったことに気づいた。このライブへ行くテンションをどこへ向けてよいかわからないわ!」という、つまり1年、時間を間違ったという主旨が書かれてあった。読んで、ぽかん。うちの家の前まで来たなら、彼氏さんと二人上がってお茶でも飲んで行けば良かったのに…とまあ最近いちばん面白い出来事だった(申し訳ない気持ちと同時に)。元気で面白い女たちは、元気で面白いから最高だ!

さて、宇宙飛行士の話題が多い。宇宙の話題は、大本営発表ではないけれど、どこか嘘のニュースを流されている気がいつもする。「未来や、宇宙への希望」を語るニュースって、本当なのだろうか?宇宙に行ったら、単なる真っ暗闇がつづくだけで、希望もへったくれもない、何もないところなんじゃないだろうか。地球の未来は、暗い宇宙に本当にあるのだろうか。地球から離れて、人類にいったいどんな希望があるというのだろうか。そんな疑念が湧く。地球は美人もいるし、ブスもいる、バカもいるし、めちゃくちゃな髪型の人もいるし、花もある。海も陸も、大間の黒マグロもすごいんだ、ぜ、と。

もう一つの疑念は「宇宙飛行士、学級委員長説」だ。この言葉は、今私が作ったんだけども、彼らのインタビューを聞くところ、皆エリートなんだけど、破綻のないエリートで、どうも学級委員長の言っている話にしか聞こえない。宇宙船のリーダーとなるべく、選別されてきたのだから、先進国の学級委員長(的資質の人達)がNASAに集まってしまうのだろうけど、それで、科学は進歩するのだろうか(宇宙船で、琴や尺八などの日本の座敷芸やってどうするんだ!別にいいんだけどね)?科学って、『昆虫記』のファーブル先生のような、マッドな人間がマッドな実験をやって、進歩してきたんだろ。クリーンな学級委員長には無理。

もう、2010年に、飽きてきました。早く、年末のクリスマスになるといい。

今月末に本が出ます(たぶん)。また、お知らせします。
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2010年04月08日

鯨と犬

1ヶ月ずっと休みがなかったので、昨日から今日の午後までは、心行くままゆっくりしていた。会社から抜けて出て来てくれた友人と待ち合わせてカレーライスを食べに行く。シーシェパードの話題になり、彼女の意見を聞く。ふむふむ。私は「調査捕鯨船の妨害をするのがシーシェパードで、だったらシーシェパードを妨害する船を…『シーブルドッグ』と名付けて一緒にやりませんか?『シー土佐犬』でもいいです」と提案したら、すごくウケてくださったので、やってみてもいいかもしんないよ。

今週は仙台にいた。知人の老婦人の納骨式だった。あんなに二人楽しかったのに、あっけなかった。もう涙は出ないが、死んだらどこに行くのだろうなあ。と、不思議に思った。

ある小説家の方と先日、飲んでいた。死んだらどこに行くか?と話していた。他の同席者の方が、生まれる前と同じだ、と。生まれる前は自分が経験してきたことのはずで、それと同じ経験を死ぬときにもするのではないか?と言った。小説家の方の発言は、表現の一個一個が輝いているので、要約が難しく、再現不可能だ。私は死後のことは考えてもわからないので、「土葬がいい。微生物がゆっくりと分解してくれる。」などと、ピントの外れた意見を述べてみたりした。

結論。死後は、はてな。

そう、「はてな」なんだ。死後は「青い空に白い雲の大きなはてなが浮かぶ」気がしたから、POST CAPITALという曲を作ったんだけど、やっとその曲のレコーディングの大詰めを迎えている(と、やっとここで話が飛ぶ)。とにかくこの曲は、難曲だ。誰が作ったんだ。すみません、自分の能力を越えた曲だ。でも、ちょっとやってみる。

鯨の肉も、犬の肉も、きっとお腹が減ったなら、美味しくいただきます。
posted by minemai at 00:00| Comment(0) | 日記
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