2009年09月30日

現在をなつかしむ シリーズ(1)WEB

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2009年09月24日

前置き

 (毎週水曜日の更新が遅れ、今日は木曜日です)水曜日は無計画に夜遊びしており、すっかり帰宅が遅くなった。友達と音楽を聴きに行って、踊って、楽しい気持ちで帰ってぼんやりしていたら夜が更けていた(あ、もう木曜日の朝だ…というように)。昨夜、その友人(女の子)は、神様が最近つくった新しい生物のように、フロアの中央で踊っていた。うん。そうこなくっちゃ。
 一方で私は、2拍の拍子の曲ならばすぐに踊れるけども、4/4のリズムは極めて苦手だと気がつく。感覚として、体を動かしたときにリズムがまだ2拍余っているので、計算が合わず恥ずかしい気持ちになる。ダンスフロアは、ミラーボールの下でまじめに考え込む。よく考えたら人間は2足歩行だった。4/4は馬車とか、スムーズに走りぬける車とか、乗り物特有のリズムのような気がするんだよ。ちなみに船や川の流れは3/4だと思うな。これから自分が作る曲で、もう四角四面のきっちりした4/4は作らないと思う。このリズムには、私にとって未来がない。
 さて、世界激場のプレ勉強会の「JIYU-KENKYU」で、この間いろんな本を読んで勉強会というのをやっているんだけど、自分なりに最近ようやく答えが出そうな気がしている。JIYU-KENKYUでやってきたことは「今がいったいどういう時代なのか?特徴を見極めること」シンプルにいえば、そういうことだと私は個人的に思ってきた。「世界大不況」というのは単なる経済の話じゃなくて、本当はだれでも漠然とそれを何かの「大転換期」だと思っているんだと思う。これまでのやり方が通用しないとか、ひとつの時代の末期症状だとか(問題なのは今、その渦中にいるからよくわかんないんだ)。
 年表を書いた。巨大な年表を!空いた時間をみつけながらExcelを使って書いたけど、それでも1週間もかかってしまった。私が関係していると思う時間、歴史を、思い出して記した。紀元前からの世界史の年表と、日本史の年表と、自分の個人史を、混ぜてひとつにしてみたわけ。こういう事件が起きたとき、自分は何をしていたかとか。そうすると大きな流れの中で、今の「世界像」を少し相対化できた気がしている。
 以上をふまえて、これからシリーズとして何回かにわけて、「今はいったいどういう時代なのか?」考えたことをまとめて書いていきたいと思う。かなり無謀だけど、やってみる。

10/4(日)JIYU-KENKYUの出席者をまだ募集しています。
http://sekaigekijou.jugem.jp/
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2009年09月16日

ワインはお好きですか?ハムはお好きですか?

今は、日本にいる。最近の2ヶ月のことを、一番最近から、過去にさかのぼって述べる。2ヶ月で、あまりにいろんなことがありすぎて、人格すら変わってしまった気がしている。さて、今週から、週間『みねまいこ』は、これまで通り、毎週水曜日に更新する。ちなみに水曜日に更新している理由は、韓国の日本大使館前の「水曜デモ」に合わせているから。


「某都市、プラハ、マドリード:8月〜最近」

@某都市
 プラハでライブするために、ヨーロッパに向かった。超格安航空券で行ったのに、さらに無料でヨーロッパ内を移動するチケットもおまけで付いていたので(どうやって採算を取るのだろう?)、まずは、某都市に住む友人C会いに行くことにした。2005年の夏に欧州プロモーションのSnigelに連れられてドイツでプロモーションをした際に、紹介してもらった人だった。
 「音楽と空間」part(1)、そしてpart(2)を書いたが、日本のライブハウスをめぐる問題を考えるきっかけになった店Xが実は某都市にあり、そこに彼女と出かけることにしたのだった。2009年に、はたしてその店はどうなっているのだろうか?その前に簡単に店Xの説明をしたい。
 問題の店Xがある某都市は、旧共産主義国だ。そのことと関係があるのかどうかは知らないが、店Xは、いくら食べても、料金は「あなたが決めて下さい、満足したぶんだけお支払いください。」というシステムだ。ワイン、サラダ、パスタ、デザート、パン。これだけのメニューで、じゃんじゃんテーブルに並ぶ。客は皿に好きなだけついて、うろうろしながら食べるのである。その店が果してどうなったか?
 友人Cとでかけた、某都市の店Xは、残念なことに今では観光客に占拠されてしまっていた。イタリア人とアメリカ人のバックパッカーが大勢で押し寄せて来ては、長居して、わずかな金で大量に飲み食いしては帰って行き、さらにはその情報をたよりに別のバックパッカーが…という見事な悪循環になっていた。つまり、地域のコミュニティーや、地域の若者がふらりと寄って、継続的に店にお金を払いつづけ、大きな黒字は出ないが赤字も出さないようなぎりぎりの経営が可能、そんな条件が、みごとに壊されていた。つまり、「食い逃げ」に近い。
 それで、店Xはどうしたか?なんと、Yという店を新たに作った。もちろん同様のシステムだ。そのYができたのは、おそらく2005〜2008年の間だろう。その店Yは大量の観光客にへき易した、地元民が集う新たなスポットとなった。そして最初の店Xは完全に、観光客仕様として、切り盛り。地元民は寄り付かなくなり、新たな店Yに地元民は移動した。だが、観光客にかぎとられ、Yにも押し寄せてくるのは時間の問題かもしれない。
 しかし、ここからが面白い。なんと経営者は、間髪入れず店Zを作ったのだ。その店は、地元民ですら、見過ごしてしまうような場所にさりげなくあり、ベビーカーを押したお母さんとお祖母さんが、一杯ひっかけにきていたりもできる。落ち着いた住宅街にあった。バス停もなく、電車もない場所だった。つまりこういうことだ、その店は「店を作っては逃げ、作っては逃げ」ている。やり方としては、非常に面白いと思う。
 友人Cは、自分の仲間を呼び出してくれ、歓迎会をやってくれた。普段は南アフリカで仕事をしている人や、スイスで働いている人、ブルガリアから働きに来ている人々、私も含め計8人で、店Zに集い飲んだ。帰り際、支払いということになり、友人Cが皆の分をまとめて払いにいくと、店長が出て来て「あなたがたはあまりにも飲んだから、これじゃ足りない。」と言って少しもめた。たしかに皆相当に飲んでいたので、それは納得のできる主張だった。
 友人Cは、「MAIKO以外は(私は酒は飲まなかったから)、もう10ユーロずつ出して」というと、仲間の男性Bが断固として拒否するのだった。「ここはもう、社会主義じゃないだろー。完全に社会主義的なやりかたでやるんなら、この店のポリシーとしてつらぬくべきだろー?金額が足りないっていうなら、それじゃたんにここも他の店と同じだろー?納得できないね。おれは、今日はこの金額を払うと決めたんだから、これしか払わんー」と。
 友人CとBの間で議論が始まる。それで、ほかの仲間もきいてる。そのうち、BとCの間で出た結論をたずさえて、友人Cが店長と話にいく。店長が意見を述べ、それを友人Cが持って帰って、またこっちで相談。それが幾度かくりかえされる。最初はきいていて面白かったが、しまいには私も飽きて来て「私が10ユーロを払うわ。うちらの内、誰が払っても同じでしょ?10ユーロプラスするしてもいいくらいは満足したもん、私が払うわ」と言うと、Cが「Bの良心が問題なの」と、お金を戻される。
 数十分経過する。結局Bが折れたのだった。店で食事をするのに、社会主義と資本主義について、人々の良心について話し合う必要があるって、面倒といえば面倒だけど、面白い店ではある。2005年は、Snigelがレジで彼の哲学にもとづき多めに支払いをした(詳しくは「音楽と空間part2を参照)。だからモメなかった。しかし、今回はたまたま出した金額が少なかった。実は、その経営方法について、今回の店Zの店長に質問してみたが、彼は英語で話すのがしんどいようで、途中で途切れてしまった(その気持ちよくわかります)。わかったことは、NPOがやっているのでもなく、どこかのお金持ちのアメリカ人かだれかが趣味でやっている店でもない、ということ。いずれまた、この店に行って、今度はもうちょっと経営の仕方を聞いてみたいと思った。

@プラハ
 最初に結論を述べると、残念なことに、プラハでライブはできなかった。風邪で体を崩して、ずっとホテルで寝ていたのであった。プラハに住む友人のハンガリーの女の子が、薬やら食べ物やら世話をしてくれようとしたけど、元気にならなかった。大ボケだ。なにをしに、ヨーロッパ「くんだり」まで来たのやら。あまり記憶もない。街の印象もない。プラハは、五木寛之の小説で読んでいて、さぞ雰囲気のある街だろうと思っていたが、色んな意味で寒々しい街という印象だった。熱でうなされていた。これは熱が出る前の写真です。
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 とにかく残念だった。昼間なまり色の空を見て、夜は書き物をして、朝は午前3時頃に目が覚めて、夜遊び帰りの人たちが乗る路面電車をうつろな気分でながめていた。
 「くんだり」で思い出した。そういえばクンデラの『存在の耐えられない軽さ』はチェコが主な舞台だった。しかしあれはプラハ市内ではなく、ブルーノという街だった。しかし、カフカがいたではないか。でも、カフカの雰囲気も無ければ、カフカの恋人、ミレナがパタパタと軽やかに、衝動の赴くまま、おてんばに走り回っていた面影もない。プラハへの感情を高めようとしても、なにも湧かなかった。きっと、ここは、共産主義が終わり、ロシアの支配が去り自由になった!という喜びもつかの間、別の支配が始まっただけの街なのだ。その名を資本主義という。
 しかも、わたしたちは戦後、資本主義が高度になった過程を経験したあとで、90年以降、新自由主義を経験しているだけだから、耐性も批判もできる体力がまだある(と、思いたい)。だけど、防波堤もなにもないまま、新自由主義の波が一気に押し寄せたら、いったいどうすりゃあいいの、資本主義の実体が明らかになるにつれ、こんなはずじゃなかったと、国民全員が、いっしゅんパニックになったのではないかと推測する。
 こ難しいことを言ったが、それはたとえばこういうことなのだ。ある日、私はホテルの向かいにテスコという大形スーパー(ダイエーみたいなもの)があって、そこにふらふらと買い出しに行ったわけ。ひとりの老婦人が、ボロをまとい、カートに支えられているのか、カートを押しているのかわからない足取りで進む。「お買得!大容量!」とおそらく書いてあるパック詰めの1人で飲むには多すぎるオレンジジュースを、ぷるぷると震える手で、カゴに入れた。この人は、少女時代に第二次世界大戦があり、成人してからはロシアの占領、長い冬があり、体制が変わり、春がきたと思えば、老いていた世代、70後半〜80代だろう。そして、その長く待ち望んだはずの西側の「自由」の行き着く先が、ダイエースーパー。正義って何よ。
 20代や10代はフットワーク軽く、英語を覚え、仕事にありつき、可能性があるような雰囲気をまとっていた。でも、30代〜40代は、とっくに学校教育を終えるころに体制が変わったので、人によって異なるだろうけど、それでもみんな大なり小なり、きっと1から生きて行く別のやり方を見つけて、「再社会化、再チャレンジ」というのをしなければならなかったんだと思う。大変なことだよ、それは。ともかく全体として、街を覆う雰囲気が、暗く重く、ずっと資本主義社会育ちのノー天気な私でも、旧共産圏の怨念のようなものを感じ、それが重くのしかかった。それで、つらかった。ライブもできなくて、気が滅入った。
 街を出る前、友人のハンガリーの女の子が、綺麗なMoserというブランドのチェコガラスでできたピアスを私に送ってくれると約束してくれた。それで、日本に帰ってからは、毎日郵便受けをのぞく日が続いているんだ。

@マドリード
 さて。帰りに寄ったマドリードでは、全快し、こんな感じ。元気。
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ここでは、ひょんな成りゆきで、滞在先のホテルにたのまれて日本からの国際電話で、日本語から英語への通訳をした。電話の通訳どころか、通訳の経験が初めてで、緊張と疲労で汗だく。でも、すごくうれしい。誰かに必要とされるのは、嬉しかった。報酬は、ルームサービスてんこ盛り。「ワインはお好きですか?」「ハムはお好きですか?」おかげでひさしぶりにワインと、おいしい食事にありつけた。金子光晴の詩をふと思い出した。金子光晴の「パリ、初めて異性にふれたのもパリ」というくだりが、「マドリード、初めて居場所を得たのもマドリード」という言葉に置き換わった。街が「おいでおいで」と言っている気がした。脳が舞い、闘牛でもしかねないほど(もちろん私が牛ね!)、全身に力が満ちていた。
 ところで、以前にスペインはバルセロナで一緒にステージで演奏したバンドのメンバーを会うことがあった。イタリア人なのだが、イタリアがベルルスコーニ政権の間は、イタリアに戻る気はないと言っていた。それでイタリア以外のEU圏内で仕事を見つけては働いているようだった。彼曰く「みねさんのバルセロナのライブの際の他のメンバーは、知らなかった?マヌチャオMANU CHAOのバックバンドだよ、そんでドラマーは別件でテレビによく出てるよ、テレビつけてみー。」とのことだった。なるほど、それでものすごく歌いやすかったのだ。バンドのリズムも音程も、ボーカルに吸い付く感じで、心底楽しかったのだった。マヌチャオのバンドの人たち、力量のあるいいバンドだった(マヌチャオ氏のCDには、正直あまり興味がないのだけれど...器用な方だなとは思う。こほん)。
 一方で、自分の日本の今のバンドを思うと、憂鬱な気持ちになった。今のバンドを100%鍛えるか、メンバーを不特定多数にして可能性を試すか。言っていることが、ちょっと妙だけど、これまで音楽と思っていたのは音楽じゃないって思う。ぜんぜん音楽じゃない、私は何やってたんだ?あー、いっぺん終わった。そんな気持ちで、マドリードのスターバックスで「オレンジジュースちょうだい!」と言って、ボーッとしていた。
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「日本、フクオカ:8月上旬」 
「世界激場」の勉強会、JIYU-KENKYUは、夏休み特別スペシャルで、現代評論家の佐藤直樹を招き、話をしてもらった。その様子については、こちら。今後も月に1度の勉強会開催。参加者も募集。ブックマークもよろしく。世界激場のホームページが、きれいにリニューアルされている。こちら。
http://sekaigekijou.jugem.jp/


「日本、トーキョー:7月下旬」
所属芸能事務所、アフロディーテの社長と会う。いろいろお世話になる。


「ニューオリンズ:7月」
 渾沌が深く堆積した場所だった。整とんや、法や、キリスト教は、湿度と暑さと邪教と、甘い油菓子によって、放逐されていた。もちろん警察もいるし裁判所もあるし教会もあるのだけど、「そんなもん、信じないっ。いつも心にあるのは、道徳を失う快感っ。」そんなスローガンが目をこすると、青空に見える気がした。
 私は、昼間はチュレーン大学のアミスタッドリサーチセンターに通い、夕方から朝にかけては暴れたのだった。昼間のまじめな話ははぶく。今、論文を書いている。そのほんの一部分が2010年の3月に本として出版される予定なので、それで読んで欲しい。

チュレーン大学のアミスタッドリサーチセンター。この日は雨。
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 さて。夕方から朝にかけては音楽しかやらなかった。欧州プロモのSnigelをダブリンからわざわざ来させるわけにもいかなかったので、自分で交渉して演奏活動をせねばならない。つまり、面倒くさい。それで、ストリートで演奏して日銭をかせぐミュージシャンの仲間に入れてもらうことにした。暑い。どうしよう。アカペラグループが歌っているのに出くわしたので、「いまだ」と思い、観客の中から彼らの演奏に合わせ私が大声で歌った。必然的に、彼らを取り囲む観客の注目は私に集まるわけね。それで、アカペラグループは「きみい。そこで歌われたら迷惑なんだよね、こっちに来い!!」という経緯になったのだった。成功です。なんて私はずるがしこいのでしょう。
 自己紹介するけど、マイコという名前がどうも発音できないようなので、「マイケルジャクソンと同じ名前でいいよ。でも、女だから、ミス・マイコーと呼んで。」と言うと、腹を抱えてみんなが笑った。恥ずかしかったけど、皆が楽しいのなら、それでいい。中学か高校の頃、リアルタイムで公民権運動を経験して、キングが暗殺されて挫折してこの間の自然災害もくぐりぬけた人たちだと思う、そんな彼らアカペラグループと行動を共にさせてもらうことになった。
 「なった」といっても、私が電話番号をきいて、電話して「あ、私だけど、今日、何時からどこのストリートでやる?」と私が積極的に動いて、むりやり入れてもらっただけ!面白かったのは、もし私が道に迷い、辿りつかなければ、ニューオリンズの連中の携帯の連絡網が動きだすことだ。道でうろうろしていたら、「あんたやろ?あんたのこと、○○さんが探しよったよ。そこにおっちょき(なぜか大分弁で翻訳します)。あんたを見つけたら、その場でひきとめちょくように、いわれちょるんよ。そこにおっちょって!」。そんふうに誰かが私を発見してくれて、すぐに別の誰かに連絡する。さらには誰かが優雅な足取りで歩いて迎えにきてくれるのだった。
 しかし私が「知らない人と歩くつもりは毛頭ない」と断わると、その兄ちゃんはひざをカクンと折って笑い「やれやれ」と何やらまた電話をかけ、10分するとアカペラグループ本人全員で迎えに来て合流。それから私を入れた全員で仕事予定のストリートにたどり着くのだった。今思えばいい人たちだった。それにひきかえ、私はなんと、迷惑千万な異邦人なのだろう。

これは、前にも公開した写真ですけど。
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 路上で歌い、小銭を稼いで、夜は高級レストランでどさ回り。だけど、その高級レストランは白人が食べて、黒人が給仕して、黒人が歌を歌って楽しませる、という人種構成だった。人種差別は南部にはありません。公正なる資本主義のもと、各人の努力と所得の結果、結果的に客が白人で、給仕と演奏が黒人です。それだけのことです。そんな目に見えない偽りの了解があった。そして何よりも、機会の平等とか、教育格差とか、そんな問題を問題として考えるのは、この暑さとだるさで持続しない。
 その高級レストランでは私が歌う機会はなかったため(「黒人の」ミュージシャンが歌うことに意味があるのと、彼らのレパートリーに私がついていけなかったのと)、だんだん私の機嫌が悪くなる。そうしたら、空いた時間ごとにメンバーが「ミス・マイコー、こちらの絵画をお見せしよう。ここはクリントン元大統領も来たレストランなんだけど、この絵画は由緒正しい誰々の作、そして…」と、機嫌を取りに来る。
 3時間くらい、テーブルをまわり、チップをかせぎ、奥の部屋でお金の計算をすることにした。その夜は私を入れて4人。私は今夜歌っていないから、要らない。ひーふーみー、ひとり30ドルずつ、残りは活動費にプールする。「今日は稼いだなあ!」と、汗をふき、嬉しそうだった。よかったね。30ドルは3000円にも満たない。一日でそれだけだとしたら。しかも病気の日もあるし、ハリケーンだってまた来るに違い。きっと健康保険も入っていないのだし、だとしたらあとは神頼みか、笑うしかないんじゃないか、と。そこで私は笑うしかない日が来るまえに、まず祈る方を選択してみようと、こんな提案をした。
 「あのね、みなさん。今夜の曲は何だった?黒人霊歌が主だったでしょ?ということは、私たちは、神の名を語ってお金を稼いだというわけ。だとしたら、神様にありがとうの一言くらい言うべきじゃなくって?」
 すると、ひとりが突然目頭を押さえて涙ぐみ、「みんな、ミス・マイコーの言う通りだ。マイコー。きみはさすがだ。よくそのことに気がついてくれた!さ、輪になろう!」そして手をつなぎ、4人で神様に祈ったのだった。リーダーの祈りはどうにいったものだった。私はフランシスコ・ザビエルが宣教しに来たいわばポルトガル経由の大分の日本人教会で育ったが、私以外はアメリカの黒人教会でみんな育ったのだった。みんな、長い距離を移動したり、大変な思いをして移動させられたよね。この400年くらいの世界史が自分達の今夜の祈りにつづいていると思うと、不思議な気持ちになった。それと同時に、生きている限り私たちが主役よ!誰にも文句は言わせない!というライブ感があった。

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 さて。結局、本当にその夜は私の出番がなかったので、やっぱり私はますます機嫌が悪く、だからメンバーがぞろぞろ私の帰路、ホテルまでついてきて、少しでも私の機嫌がなおるよう歩きながら大声で町の知り合いたちとばったり会う度、宣伝をするのだった。「彼女はマイコーっていうんだ!いい歌手で、ダチなんだ、ダチなんだ!」と。私も見知らぬ人に大統領の気分で手を振って(お調子者)、ホテルの玄関までくると楽しくなり、機嫌もすっかりなおってまたねと別れた。
 夜、眠る前に考えた。そんなに長い期間滞在したわけじゃないけれど、彼らだけじゃなく、いろんな人にアメリカで会って、話をして楽しかったり、頭にくることをされたり、単純だからこっちも頭にきてきっちり仕返しをしたり、肩をくんで歌ったり、人づてにあるバーの女主人にきくといいということで、そのバーに行ってあることを教えてもらおうとドアを開けると、昼間から無職の連中がスロットマシーンをうつろな瞳で見つめては酒を飲んでいて、全員がこちらを振り返ったので少し驚いたり(でもきっと、知らない東洋人が来て彼らも驚いたのだろうけどさ)、黒人教会の音楽に感激して最初から最後まで泣きじゃくっていたら(←迷惑なやつ)隣の女性が始終手をつないでくれたり、なんかいろいろあったんだけど、本当にどうして違和感がないのだろう。どうして私は、こんな遠い国にいるのに、知らない人と話が通じるのだろう。通りを歩いていたら、知らない人から「あんたの歌、きいたよー。」と声をかけられるのも嬉しかった。
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 理由を思いつく前に、すぐに眠ってしまうのだった。眠りかけたとき、昼間見かけた、駐車場に棄ててあったペプシコーラの空き缶の裏に、目の周りに赤いふちどりのある黒い鳥が「暑い。」と言ってぼう然とつったっていたことを思い出した。真っ白な夾竹桃の花は、フレンチクオーターで「私たちの美しさは、まだこんなもんじゃないわよ。見てなさいよ。」と、挑むように咲いていた。ミシシッピー川は、人間にばれないように、ときどきこっそり時間を止めたりしていた。殺人も強盗も強姦も、警察による民間人への発砲も、ふつうにある町だけど、嫌いになれなかった。私は、聖と悪と善と俗にまみれて、汚くても、ぐちゃぐちゃな町で、生きるのが好きだ、ぐちゃぐちゃな音楽が好きだ。
 ひとつ気がついたシンプルな真理は、私はアメリカ南部の空気を、もうとっくの昔に知っていたということ。日本の教会で黒人霊歌を歌い始めたのが10代だったが、それから大学で、1840年代〜1850年代生まれの人たちの残した記録を調査して来て10年以上がたつ。つまり、私は南部で出会った人々の本人たちも知らないような、じつにひーひーひーひーおじいさんやおばあさん、4世代から5世代のことをよく知っているのだ。だから、私は昨日今日、ここに来たわけじゃなかった。日本にいたけれど、私の心はとっくの昔からここにあった。そしてきっとこれからも、ここから出て行くつもりはない。

以下、おまけの写真。

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あ、まちがえた。このコ、スイスのうるさいコ。

週末に郊外のプランテーションの見学にバスで行ったとき。奴隷制度の富で建てられたお屋敷の前で、晴れやかな笑顔をうかべる悪魔のようなわたくし。
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案内人が南北戦争当時のお嬢様のコスプレで現れるというので、きっとスカーレットオハラみたいな女が「私たちの過去の栄光をご覧なさい!」と、仁王立ちで解説するんだろうなあ、落ち込むなあ、奴隷制ってと思っていたら、「ドスドスドス、はーい!話を聞きたい人、集まってー!」すごみのある女の子が登場して。
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ミシシッピー川で、不思議な落書きを見つけた。
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1970年代のニューオリンズの写真。これは、たぶん葬式の様子。人が死ぬと、明るい葬式が行われる。撮影は、ニューオリンズで活躍した有名な写真家、Michael P. Smithによるもの。すべてチャラになるくらい、素敵な写真。
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さて、私が出会った若い男のミュージシャンたちの殆どの人が(女性ミュージシャンはあまりいなかった、なぜだろうか?)、貧困となんらかの体調の悪さと(たぶん)、競争どころかスタートラインにも立てなかったり、キャッチフレーズとして「これからますます音楽は金にならない、しかし打ち込む価値はある、だがつらい、暑い、」という感じだった(日本で音楽をやっている連中とたいして変わらない)。

その中でも少し、本当に1人とか2人とかは、心がまだ死んでおらず、奇跡の魅力を振りまいていた。そんな男は、わざわざ話をしに近寄ったりしないのだ。私が何も注文していないのに、テーブルには飲み物が届く。不思議に思って周りを見回すと、ハンサムな、ハーレムルネッサンスの頃(1920年代のニューヨーク)のような仕立ての白いスーツの男がほほづえをつき、秋の空を見るような遠い目をしてこちらを見ていた。私が「ありがとう」と声に出さないず口だけ動かして言ったら、「にやり」と笑った。その後、彼は友人たちと踊り狂っていたが、悪い男なのか、紳士なのか、よくわからなかった。素敵だった。かなり話が脱線してしまった。とにかく、そんなパッションのある人間が1人か2人まだ残っていた。それにしても写真!私も飛びたい!!

過去の海外ライブ、その他

2006 東京ーアムスーバルセロナ
http://minemaiko.sblo.jp/article/5287453.html
http://minemaiko.sblo.jp/article/5287414.html
http://minemaiko.sblo.jp/article/5287451.html

2010 沖縄琉球王国
http://minemaiko.sblo.jp/article/36777415.html
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