2018年11月20日

老いが全人類にとって益となる とき

以下、韓国の日刊紙「東洋日報」から原稿の依頼を受けて11/9朝刊に出ました。以下、その日本語です89DBCBFC-A75A-4A4F-A604-04553A28A1FC.jpeg

「老い」ときいて多くの日本人の頭によぎるの は、1957年の深沢七郎の小説『楢山節考(ならやまぶ しこう)』(映画は1983年カンヌ国際映画祭でパ ルム・ドール賞を受賞) ではないだろうか。大枠でいえばこの作品は、日本の僻地にある古く貧しい農村 で、村人たちが限られた食料で生きのびるため、やむをえず老人たちを犠牲にした ことを描いている 。老人 は70歳になると「死出の山」と名づけられた山のうえ まで長男に背負われて運ばれ、そこに遺棄されるとい うストーリー。貧しさと古い因習において、ときに老 人が自らすすんで 自己を犠牲にする姿は、現実から乖離しているからこそ一つの作品として鑑賞できた が、 今ではすっかり笑えないブラック・ジョークになってしまった。

65歳で定年退職したら「楢山」に行かねばならない のか? そんな絶望的な気持ちにさせられるほど、高齢者の年金は十分とは言えない。しかも定年退職後の 再就職は容易ではなく、貯金の金利も無きに等しい。 端で見ていて、私が老人であればばかにするなという 気持ちになるに違いない。そう、高齢者は、無意識の うちに痛めつけられている。 だが厄介なことに、高齢 者の問題は高齢者だけの問題ではすまない。日本の出生率の低下は老人の人口増加と連動しながら、勤労者人口の割合を減少させ、老人1人を支える勤労者(20 歳から64歳まで)の数が、2025年には3人を下回る。 老齢年金をはじめとする老人ホームや福祉関係の費用 の元は勤労者の税金から払われている が、現在の勤労 者が老人になった際に、見返りが先細りするのは明白 だ。持ちつ持たれつとは頭でわかっていても、 支える側の脳裏に「高齢者は楢山へ」という言葉が一瞬よぎるかもしれない。

思想家の吉本隆明は「人間の生涯で大切なことは二 つしかない。一つは老人を経済的に安定させて、少な くとも世話をしてくれる人を雇えるくらいの余裕を持 たせる。もう一つは妊娠した女の人に十分な休暇と給 料を与えて、十分な子育てができる。この二つが実現 できたら歴史は終わり」だと言った。 彼の言う歴史とは、今われわれの生きている文明と言 い換えていいだろう。老人と妊婦(その子供)が一切 の不安から解放されたなら、私たちはようやくそこ で、本当の意味で高度な文明を築き上げられたと言えるだろう(しかし、そのような信念に貫かれた政策を もつ政治家が出てくる気配がないのが残念だ)。

さて、老人像の変化を反映してだろうか。 最近に なってあの『楢山節考』に、『デンデラ』というタイ トルの続編が作られた。山に遺棄された老婆たちは、 「デンデラ」という名の小さな集落を秘密裏に形成し、村に復讐することを企てる。そこにはもはや、か つての老人の自己犠牲はない。老人たちは賢く強くな り、この村の老人遺棄の悪習は食料の再分配の失敗で あると冷徹に分析する。ある説によると映画のタイト ル「デンデラ」とは、日本語の方言で「出るに出られ ない」という意味だという。なるほど、老婆たちは野 生の熊から何度も襲われる。老婆たちは村へも帰れな ければ、熊からも襲われ、雪山の「デンデラ」からど こにも行けない八方ふさがりの状態。つまり、それは 今の日本の老人たちの行き場のなさそのものであり、 高齢者をとりまく様々な政策が八方ふさがりであるこ とをうまく象徴しているのだといえる。

『デンデラ』の登場人物は老婆ばかりだ。セリフの 端々からにじみ出るように、彼女たちは家父長制度を憎む女たちであるともいえる。だが、日本の高齢社会では女性の平均寿命が現在の7年から2050年には8年 男性より長くなると言われる。女たちの方が長生きするがゆえに、より厳しい闘いを強いられてい ることの隠喩かもしれない。かつて小津安二郎の映画には、俳優の笠智衆が庭をながめてお茶をのみ、在りし日を思うような老いのあり方が描かれたが、今では映画にも現実にもどこにもそんな老人はいない。答えは簡単で、それは単に寿命100歳時代といわれるように、老人の寿命が長くなったからである。現在の老人が小津映画の老人のようにのんびり隠居してしまったら、老後の資金が足りなくなって最後は飢えるだろう。平均寿命の性差や個人差はあるが、結局のところ、誰しも が伸びた寿命に戸惑っている。

大きな財産があるとか、一生をかけて道を極める寿 司職人のような職業であれば話は異なるが、たいていの高齢者は困ったことに行き場所もなく、ロールモデ ルもいない。「ボケる」といった老化現象を「老人力 がついた」とプラスに捉えることを指南した『老人力』という本が1998年に大ヒットしてから、今なお幸せに老いるための啓蒙本は増え続けており、誰もが一 斉に答えを求めようとしている。高齢者にお金の節約 の方法から、若者に嫌われないような所作や、加齢臭対策をアドバイスするなど様々である。まったく 読者を自由にしようとしているのか、束縛しているのかわ かったものではない。人生の最終ラウンドであれこれ 生き方を指示されて、人から説教されながら生きねば ならない高齢者の姿をみて、さらに若者は老いることに嫌悪感を抱く、という悪循環に陥っている。

もちろん、老いが憧れや希望となるような生き方 も、生まれる可能性が全くないとはいえない。事実、歳をとったという実感がまったくなく、それは単なる 数字でしかないと考える高齢者も多くいるだろう。たしか聖書の創世記でアブラハムが神の声を聞いたの は75歳のときだった。彼がそこから新しい土地に移っ て新たな国づくりをはじめたのは現代のわれわれにとっても驚きである。もちろん、現代の高齢者も、アブラハムと同様になにかを始めるのに年齢は関係ない。

私の身近にいる高齢者たちも元気だ。東京のお茶の水に、東京YWCAが運営する女性専用のプール&ジ ムがあり、1929年にできた当時、封建的な家族制度の 中で生きる女性たちが、自分のために健康を考えるこ とのできる先駆的な日本初の女性専用屋内温水プールだった。下は16歳から80を超えた様々な年代の女性た ちが汗を流している。そこに 通う高齢女性たちとの会話からわかることは、彼女たちは老い方や死に方を自分で決めたいと考えていることである。そして、それができる条件として何より大事なことは、自分の体が 死ぬまで健康であることだと考えている。

日本のことわざに「女は灰になるまで」という言い方はあるものの、今の日本社会において高齢女性の性 の話題は基本的にはタブーである。だが、老い方を自 己決定しようとする高齢者がこれからも増えれば、そ れに付随して高齢者の性の語り 方も変化していくだろう。女優で作家の岸惠子は『わりなき恋』という小説 を近年発表し、70歳の女性の性と恋愛をかなり具体的 に(ホルモン治療のディーテールを含めて)描き話題 となった。性の問題に限らず、世界的に高齢者のイ メージを破る作品や生き方はますます多様化するだろう。近年日本で話題となった『Advanced Style』とい うという写真集を開いてみると 、被写体は60-100歳の ニューヨークの女性たちであり、彼女たちの個性に裏 付けられた美しく元気な老いは、十分に若者たちをも惹き付けている。

だが、私たちは本当に人生の最後の最後まで、本当 にきらきらしていられるだろうか? というのも、年齢に関係なくジムやプールでなんとか体を 動かし、恋愛もし、好きな服を着替えられるうちはまだいい。だ が、骨の髄まで老いて目が見えなくなり、排泄がうまくいかなくなったとき、どうするのか。そのときこ そ、私たちの知恵が試される。

ここで私の結論は、最初に戻る。繰り返すが私たちの文明は、老人に安定を与えることで初めて、本当の意味で高度な知に到達したといえる。ただ、それが実現されるためには、老いることの意味が変わらなければならない。すなわち、 身体能力が完全に落ち、完膚なきまでに老いたとき、 その老いが全人類にとって益となるような意味が生まれる必要があるのである。

哲学者の鷲田清一は、老いについて興味深いことを 述べている。「頑張りのあとの休息でも、退役したが ゆえの気楽さではなくて、しなければならないと思わ れてきたことをしないことがこの社会を変えることに つながるようなひとつの超絶として、<老い>に浸る ということができないものか」。なるほど、私たちは、どうしても最後には動けなくなるだろう。これま で出来たことができなくなるだろう。だが、逆に動けない、できない経験を通じて、本来やらなくて良かっ たことを、高齢者こそが社会に提示できる可能性があるのである。若い人に「本当に大事なことは少しで、 そんな余計なことはやらなくていいんだよ」と、彼らが示すことができれば、どれほど社会を良い方向へ変 えることができるだろう。老いには人間の生きる意味 や、人生の質を上げてくれる可能性がある。それは、 私たちは人類全体の益である。また、老いることが人びとに益をもたらすことは 、老人を経済的に安定させ ることにつながる。

アメリカの作品で、老人を描いた映画に『八月の 鯨』がある。老いた老姉妹が島の海辺の家で暮らす。 姉は白内障で失明し、老いた二人がただ身を寄せ合っ て日々を生きる。島には毎年八月に鯨が来る。映画の 最後で二人は意を決し、島の岬まで鯨を見に行く。彼 女たちにしてみればそれだけで 大仕事であり、お互い を杖のようにして支え合いながら歩く。 岬にくると地 平線を眺めながら、妹が「鯨は行ってしまったわ」と 残念そうに言う。すると目は見えない姉が「分かるも のですか そんなこと分からないわ」と言い、二人で じっと鯨を待っている。 ここでも、様々なことが出来 なくなった彼女たちがわたしたちに教えてくれ てい る。案外、わたしたちがやらなければならないと信じ られてきたことは、本当はやる必要がな い。もっと大 事なことは、海辺で鯨を待つとか、そんなシンプルな ことなのかもしれない、と。
posted by minemai at 13:08| 日記

2018年04月30日

帰郷(the Journey Back)

峯 真依子『奴隷の文学誌ーー声と文字の相克』(青弓社)9784787292483_600.jpg

本日、本がようやく出版されるので、感激している。が、同時にこんな生き方でよかったのか? という不安も押し寄せてきて、この数日、東京から九州にいろんな人に会いに行った。まるで自分が死ぬ間際に、別れの挨拶でもするかのようだった。十代でキリスト教の洗礼(プロテスタント)を受けたせいなのか、根っから天職(calling/Beruf)というものを探し求めるという妙な癖がある。

様々な人から言われた言葉が面白かった。それだけでロードムービーが出来上がりそうなほど。ここに一部を書き記す。

・「浅草で、浪曲の伴走となる三味線を担当する上手い曲師が必要です。」大分にあるミニシアターの草分けシネマ5館長、田井氏の言葉。
・「べっぴんさんが来たでぇ。」親友のお母様の言葉。嬉しい。
・説教。再現不能。たしかに全部私が悪いと思います。私がオルガニストをやらせてもらっていた、キリスト教の教会にて。

大分銀行赤レンガ館で、本を読みながらコーヒーを飲んでぼーっとしていた。東京駅と同じ建築事務所による明治時代の設計だとか。スーツ姿の支配人のような方が、洗練された身のこなしでさりげなく会釈してくれる。

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仕事が後世に残るってのは、すごいことですね。
posted by minemai at 14:25| 日記

2018年03月13日

本のお知らせ

こんにちは、みねです。

2/28更新予定日を過ぎてしまい、ごめんなさい! 

私の書いた本が出ます。
まったくここまで来るのに、どれだけ時間がかかったんだ? と、わがことながらあきれてしまいます。
『奴隷の文学誌』青弓社(2018年4月30日発売予定)

おそらく皆様のお手元に届くのは、5月の連休頃になると思いますが、読んでいただけると嬉しく思います。

次回の更新は4/30です。
posted by minemai at 23:43| 日記

2018年02月19日

Video killed the radio star

あらためまして、こんにちは。
タイトルは、今日聴いている曲だというだけです。

近影をUPします(現在の職場である大学の広報で使用される写真)。

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いえい!

次回の更新は2月28日です。
posted by minemai at 12:19| 日記

2018年01月31日

近況お知らせ

はろー。事情より、ちょいとお待ちを。しーゆーすーん。
posted by minemai at 23:45| 日記

2017年11月30日

思い出した頃に「ポスト・キャピタル(デモ・付加版)」みねまいこ+サクラダ

皆さま、こんにちは。
しばらくぶりに、このポスト・キャピタルという曲を、京都のサクラダさんが、編曲し直し、コーラスも入れて曲を作り替えてくれました!やったね!



じつは今回、私の貢献度はあまりありません。 やっぱり京都のサクラダさんは、素晴らしい。

次回の更新は、1月31日(日)です。
私は、クリスマスと正月は何かをあおられる感じが嫌なので、12月の更新は飛ばします。
posted by minemai at 21:24| 日記

2017年11月03日

イータリーはノット・イタリー

この間のこと。海外生活の長い友人から、なつかしいイータリーというイタリア食材兼レストランの支店が東京駅にできた!と教えられ、世界中のどこのイータリー行ったこともないけど、仕事の帰りに一人で行ってみることにした。

夜は8時を過ぎて、東京駅の地下だというのになんという活気。レストランは一面、すべて満席。ワインを片手に、イタリアの高級でオーガニックな食材でこしらえた、こじゃれたイタリアらしい元気の良い色味であふれた料理を囲んで、だれもが幸せそう。なんというか、だれもが今、幸福感を感じていることの幸福感にひたっているみたいな感じ。

満席だったので帰るとしよう。が、空腹で目眩がする。お。食材コーナーのレジの周りに、イートインスペースがあるではないか。基本的には椅子はなく、立ち食いのためのテーブルが、たくさんあった。そこでサンドウィッチの作りたてを買って食べることができる、というわけ。それを試してみるとしよう。立ち食いは駅の蕎麦屋以外は、したことないけど、九州の田舎で昔みた、角打ちという酒屋で立ったまま塩っぱい小さいつまみでお酒をのむ風習を知っているし、立って食べた経験値は低いが、たぶんやればできるだろう。

炭酸水の1リットルの大ビンを買って、ひとつのテーブルの上に置き、そのテーブルを自分のために確保した。椅子はもちろんなし。そのあとで、サンドイッチを目の前で作ってもらうのを待つ。たかがサンドウィッチで、高いな。でも、イタリア的な明るい人生を味わえれば、安いもの。さささ。サンドイッチを受け取って、確保してあったイートインのテーブルを振り返ると、さささ、サラリーマンが。

白ワインの入ったグラスワイン一杯をそばにおいて、お皿には、冷たそうなひらべったい、色が薄くなってるトマトソースのピザが一切れ。ナイフとフォークで小さくして、食べようとしている。このやろう。私の炭酸水、この人に取られちゃかなわない。で、こっちもお腹が減ってるし、なんかムカつくしで、炭酸水を右手でぐわしっと取って、きっとにらみつけた。

するとサラリーマンは、「すみません」と言ってナイフとフォークを置こうとしながら動揺している。彼の首には、会社の社員証が、緑色のひもにぶらがっていて、そのひもが、まだ仕事の途中で、夕ご飯を食べに地下のイータリーに来て、そのピザとグラスワイン一杯飲んだら、オフィスに帰ることを物語っていた。

私ときたら、条件反射的に、無視してしまった。そして、どうしてこんなに、イライラしたんだろう。まいちゃんったらどうしちゃったの。後悔と同時に、自分の恐ろしい態度、「無視」に、驚いて、で、その後、後悔するのだった。

きっと外国語だったら、にっこり笑って、「大丈夫ですよ」みたいな、普通の対応をしたのかなって思う。でも、キっとにらんで、無視してしまったのは、こんな時間まで仕事して、まだ職場に戻るっぽくて、なおかつ、立ってうすっぺらいピザを食べてて、他人の炭酸水がぼんっとテーブルの上にあることさえも気付かない程、疲れきっている日本人の姿に、言いようもない悲しさと、自分の姿を見て、なおかつ、それを認めたくなかったからだ。

で、結局、サンドウィッチと炭酸水を持って、店を出て、家で食べることにした。サラリーマンに、悪かったな、と思いながら、電車に乗って、今夜のことを整理する。

やはり、立ったままナイフとフォークを使って食べることは、やってはいけないのではないか。夕ご飯に、ピザ一枚は良くないのではないか。そして、立って食べさせても、客は喜ぶと思っている店は、いくらコじゃれてたとしても、客をなめてるんじゃないか。立ったままでも貧相ではないのは、飲み物のレベルまでなのではないか。その後、そんなふうにいろいろ考えて、出た結論は、余裕のなさと、闘わなきゃならんってこと。なぜなら、余裕がないと、何も考えられなくなって、日々を消費するだけになってしまう。

この店はきっと、イタリアの食材だけでなく、イタリア的な余裕とか、明るさとか、天真爛漫さとか、食への飽くなき情熱とか、ローマ帝国とルネッサンスとの遺産と貯金だけで21世紀まで生きてきたノー天気さとか(失敬)、そんなイメージも売る場所なのではないか。イタリアを演出しても、東京駅の地下という空間は、余裕のなさによって浸食されてた気がして、イータリーはやっぱ日本だわ、って思ったのだった。ちゃんちゃん。

次回の更新は11/30(木)です。
posted by minemai at 19:33| 日記

2017年09月30日

キャパの手は、そのとき震えていた。

さる2017年9月15日(金)の日本文藝家のトークサロン「忖度はなぜ英語に訳せないか」というイベントに、起こしくださった皆様、これを読んでいるとは限りませんが、ご来場ありがとうございました。そのレポートを少し。ただし、写真を撮影して下さった方が、信じがたい程に「え…?」という腕前でして、ぜーんぶピンぼけ。ロバート・キャパも真っ青なのでございます。あはははは。ほとんどが、このレベル。
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かろうじて人の顔が認識できそうな写真が、これと(打ち合わせ中)
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これぐらいか。(開始前の準備中)
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どうして、こんな写真ばかりなの。

開始前、ちょっと主催の日本文藝家協会の内部の方々がざわついていたのが、作家の加賀乙彦氏が、見に来てくださり、最前列におすわりになっていたこと。私としては、実家の書棚に何冊か、普通に置いてあって、読んだことがあった作家なもんだから、すっかり面食らってしまった。終了後に名刺交換とかしてもらおうかと思ったが、大作家を前に私ごときが身の程知らずだなと思い、緊張しまくって、結局交換できなかった。妙なところで、野心にも似た、焦るばかりの欲のようなものが、ここぞというときに、まるで憑き物が落ちたようにしぼんでしまう自分が憎い。

さささ。
次に、みねまいこが出演するイベントは、こちらです。ぜひ、お越し下さい!
http://www.cgu.ac.jp/tabid/1914/Default.aspx#liberal_arts
(注!私のライヴではなく、遊びにきてくれた皆さんと一緒に歌う感じです)

次回の更新は、10月31日です。
posted by minemai at 22:47| 日記

2017年08月31日

ある弱さについて

スウェーデンの作家スティーグ・ラーソンによる『ミレニアム』シリーズ(3巻までは本人による作品)を読んで、大きな衝撃を受けた。こんな傑作をどうして、今まで知らなかったのだろう。これを読んだ後、女性をとりまく問題の多くが、絡まった糸がするするとほどけるように、これ以上ないクリアな解を得るのだった。保育園落ちた日本死ねも(母親と赤ちゃんたちには、飢えずに生きる権利がある)、事件化されることは絶対にないごく微細な身近なニュース、しかしよく考えてみると極めて不愉快な構図も、根底には『ミレニアム』で描かれたテーマと同じものが薄気味悪く横たわっているように思えた。

関東で仕事を始めて以来、あまり選択の余地なく電車が自分の足となった。ある朝、いつものラッシュの時間帯に、普段とは違う車両に乗った。すると、私の髪が後ろの中年男性の顔に触れたか何かで、その男性が「ふさけんな」と言って怒っていた。私は怖くなって、すぐに謝ったが、私の顔に浮かんだ反射的な恐怖の色を見逃さなかったのだろう。攻撃は、弱い者に向かう。その男は、弱さを見せた私をさらに罵倒し、謝罪が足りないという主旨の言葉で、ののしるのだった。その一瞬、私の何かに火がついた。地声で最大限に大きな声で、私はその男に怒鳴り返した。これは、かなり勇気が要ることだった。が、今ここで沈黙したら、沈黙することに馴れてしまう。それだけは、絶対に嫌だった。

女に抵抗されるとは、思ってもみなかったのだろう。困惑すると、その男は、思い切り私の下腹を殴りだした。そのパンチはかなりきいた。が、さらにデシベルを上げて、声で抵抗する以外にできない。殴り返せない。私が弱いからか。もしくは、頭にきても手を出したら終わり、と、昔、小学校で習った言葉が頭をよぎったからか。もしくは、右の頬を撃たれたら左も出せという、ミッション系の幼稚園の教えが頭をよぎったからか。おのれ、初等教育の恐ろしさよ。この後に及んでも優等生ぶった私は、暴力という手段を選べないまま、その握りこぶしは、ぶらさがっているだけの役立たずだ。やはり、攻撃しかえすべきか。ゆっくりスローモーションで、同じ車両のあらゆる人々がこちらを向くのが見える。面白いのは、周囲の誰も助けてくれないこと。

殴り返すかどうか逡巡しながら、結局「次の駅で鉄道警察呼ぶからな、このやろー」とだけ叫び、その後は情けなくしゃがみ込む私。次の駅にやっと到着すると、その中年男性は電車を飛び出して、走って逃げて行った。となると、次に私の怒りは、行き場を失い。「いてー、くそー」と誰に向けてでもない言葉を床にむかって吐き捨てながら、せめて体を休めるために壁際に移ろうとする。すると、これだけのラッシュなのに、なぜか人が綺麗に割れて、満員電車の中心に、私のための道ができるのだ。少しモーセになったような気分で私はよたよた歩き、車両の隅までくると、サラリーマンが見て見ぬ振りをしたことの贖罪の気持なのか、座席を譲ってくれた。

そんなことがあってから、いろいろ考えていた。まず、私は強くならなければならない。体力をつけるために、シンクロナイズド・スイミングと護身術を始めた。前者は、過酷なスポーツだ。常に「息苦しさ」との闘いである。それはまた、生きる上での「女たちの息苦しさ」という意味で、象徴的な意味をもっているともいえる。近年は男性の競技人口が増えつつあるけども。後者は、文字どおり、自分の身を少しの腕力でも守れるように、効率の良い防御的な攻撃を学ぶために始めた次第。つぎに、若い人が自由に生きる手伝いをしなければならない。自分がこれまで、誰かにされて嫌だったことから、彼らを守らなければならない。自由というのは、学問や研究の自由でもあり、言論の自由でもあり、表現の自由でもある。

そうなれば、自由のテーマソングが必要だわよね。

2017年9月15日(金)、東京麹町の文藝春秋ビル(新館)で行われる、イベントの告知です。お席はまだあると思いますが、お早めにご予約ください。
日本文藝家協会トークイベント
お待ちしています!
posted by minemai at 17:35| 日記

2017年07月31日

秋のお知らせ

みなさん、こんにちは! 最近、アニサキスにあたってしまい、まだふらふらしていますので、とにかく、今日はいくつか出演するイベントのお知らせだけさせてください。

東京(麹町)
9月15日(金)夕方18:30より、日本文藝家協会のイベントに出演します。
お席はまだあると思いますが、お早めにご予約ください。

千葉(我孫子市)
10月29日(日)14:00より、箱根駅伝でも有名な中央学院大学の学園祭の参加型の授業イベントに出演します。こちらは予約は必要ありません。高校生向けとは書いてありますが、どなたでも大歓迎です。私が歌うのではなく、基本的に参加者の方々が歌う!というコンセプトです。

ちょっとトリビア
9月の日本文藝家協会のイベントは、過去の別の回にお客として遊びに行った際、白ワインが意外にも美味しかったので、選んでみて下さい。

10月の中央学院大学の授業イベントは、最寄り駅の我孫子駅の弥生軒という駅のホームにある立ち食いそばの店(画家の山下清がバイトをしていたという)が、ワイルドで美味でおすすめです。頼んだらわかるから。

という感じで、人前に出る仕事を徐々に増やしながら、何が何でも音楽の仕事の勘を取り戻すのよ、というのが今の私のスタンスでしょうか。以上です。アニサキスには気をつけてね!

次回更新は、8月31日です。
posted by minemai at 22:46| 日記
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